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明日の風

明日の風

介護の終わり

(1)
介護がある日突然始まったように、
介護の終わりも突然だった。私の場合は。

その日、私は生まれて初めて救急車に乗った。
今までも救急車を呼ぼうかと迷う時はあったけれど
その日は迷いはなかった。
数分もしないうちに救急車はやってきた。

母は月一回の往診は受けていたけれど
個人の開業医で、うちに来てからは入院したことがない。
どこへ運ばれるか心配だったけど、
受け入れてもらえるなら遠くても仕方ないと思っていたら
一番近い病院だった。それも私のパート先の。

救急車で運ばれながら「ラッキー♪」と内心思っていた。
これで仕事帰りに見舞いにも行けると。
入院すれば退院できると思っていた。その時までは。

病院に着くと母は救急治療室に運ばれ、私は待合室の椅子に座っていた。
しばらくすると母を担当してくれる医師が現れ
今蘇生マッサージをしているけれどもう駄目だろうと言う。
あと20分くらい続けますが、どうしますか、と。
(もっとちゃんとした事を言われたのだが私の記憶が曖昧で、多分こんな内容だったと思う)

「え? え?  そんなレベルなんですか?」
医師はうなずく。

医師の言う事の意味もよく判っていなかったし
「どうしますか」と言う事の意味する事も判っていなかった。
ただ母はもう駄目かもしれないと言う事だけが、その時やっと判った。

(2)
どうしますかってどうすればいいの。
医師は気遣ってくれるのか、ストレートな言い方はしない。
曖昧なやり取りの中、
もう母は回復の見込みがない事だけが判った。

医師はまた治療室に戻り私は椅子に座っていた。
次に呼ばれた時、私は母の傍に行くことができた。

母の周りを大勢の医師や看護士が取り囲んでいた。
母一人のためにこれだけ大勢の人が関わってくれていたのだ。
それでも駄目だったのか。
「ごめんね。ごめんね。」
私は母の手を握りながら泣いた。

そこはいつまでも泣いていられる場所ではなかった。
次へ進まなくてはならない。
しばらくの猶予をもらって母の着替えを取りに帰った。

亡くなった後のことは考えなかったわけではない。
ただもう少し先のことだと思っていた。
それに私は生きている母の世話はするけれど、その後は兄がするべきだと思っていた。
だけどもう亡くなってしまったのだ。
後のことはともかく母を連れて帰らねば。

近くの葬儀会社に主人と直接行って相談した。
こちらの事情を話し、うちへ連れて帰りたい事、
家族だけで送りたい事
祭壇はいらないから花で飾って欲しい事
30万円くらいでお願いしたい事など
それが適正なのかどうかも判らず思いついたままを言った。

あとで周りからなんと言われようと構わない。
私が謝るべき相手は母だけで
口うるさい外野はとうの昔に母の事は忘れているのだ。

(3)
葬儀会社のスタッフは誠実に丁寧に対応してくれた。
その会社がこの地域では比較的新しく、マンションが立ち並ぶ中にあるので、
私のような要望も多いのかもしれない。

母の着替えを持って主人と病院に戻った。
救急車で運ばれ、数時間病院に滞在した母は、
葬儀会社の車で病院を後にした。
担当医になってくれた医師と数人の看護師さんに見送られて。

私の頭の中は混乱していたが
まず母をうちへ連れて帰ること。それから兄と連絡を取る事だった。
私はこの八年間実家に電話したことはない。
兄から数回電話があったが、あとは気まぐれに兄が何か送ってくれた時
母の近況を知らせる手紙を私が出すだけだった。
いくらなんでも母が亡くなった事は知らせねば…
八年ぶりに実家の電話番号を押した。

「この電話は現在使われておりません」
三回掛けても同じだった。
携帯電話も父が生きていた頃聞いた番号に電話してみたが
呼び出し音は鳴ってはいても出なかった。
十年前の携帯をそのまま使っているかどうかもわからない。
最後の手段は電報だった。
あとは兄の出方を待つだけだ。
私はもう何も期待していなかった。

(4)母は介護ベットに寝かされ、その周りを花で飾ってもらった。
主人の身内にも隣近所にも、家族だけで見送りたいことを伝えた。
嫁いだ長女が駆けつけて次女と雑用をあれこれやってくれた。

私は疲れているのだけど頭が妙に冴えて、
冷房を効かした母の部屋で毛布にくるまっていた。
八年前の今頃もこうやって母の部屋の入り口で寝ていたっけ。
あの時は母が起きて出て行こうとするので、入り口で見張りながら寝ていたのだけど
もう母は起き上がることもない。
時折白い布をめくっては母の顔を眺めた。
看護師さんと葬儀会社の人のおかげで、母の顔は綺麗にしてもらっていて
それが唯一の救いだった。

翌々日、母は荼毘に付された。
主人と私と長女夫婦と次女だけで見送った。
兄から連絡があったのはその二日後だった。
色々言い訳をしていた。
本当の所はわからないが、もうどうでもいい事だった。
私にしても今更会いたくはないが、母の納骨のことがある。
これさえちゃんとやってくれたらそれで良い。
感情を抑えて淡々と話す私に兄は安心したようだった。

こうやってやるべき事から逃げて人生を狭くしているんだね。
母さんはずっとあなたの事を心配していたよ。
あんまり心配するので私が怒って兄の事はもう口にしないでって言ったら
母さんはほんとにあなたの名は口にしなくなった。
だけど泣くようになったよ。

あれも駄目、これも駄目って
息子を心配することすら許さなかった私も
母にとっては辛かったのかもしれない。

(5)
母が亡くなってから二週間たった。
介護ベットも返し、母が使っていたポータブルトイレも処分した。
母が居た部屋は、母が来る前の六畳の和室に戻った。
部屋の片隅には母の遺骨と遺影と花が飾ってあり
線香の香りがしている。

憂鬱とか寂しいと言うのではなくて
なんだろう、この感情は。
居たはずの人が居ない。
日常の切り替えに戸惑う私が居る。

ディやショートで居ないのとは違って
もう母はどこからも戻ってこないのだ。
父が亡くなった時とは違った感情だ。

父の時は半年ちょっとの闘病で、
私は月に数日、実家に帰るだけの看護だったが
亡くなった時は正直開放感があった。
父の事は大好きで、父が癌と宣告されてからは
下を向くと涙がこぼれそうな日々だったのに。

母とは相性が悪くて、八年も背中にべったりの介護だったが
終わった今、開放感よりも喪失感の方が強い。

ああすればよかった…
こうすれば…
でも私だって精一杯だったんだ…
感情を足したり引いたりの繰り返し。

遺影の母はその時々によって
笑ったり、困ったような顔だったり。
ほんとはもうこんな所には居なくて
田舎に飛んで帰っているだろうけど。

こんな時は無理に浮き上がろうとせずに
いつもどうりの生活を淡々と送っている。

母の介護は終わったけれど、介護が完全に終わったわけではない。
元気だけど高齢の舅がいるし
自分たちだってそう若くはない。
いつ何時どんな運命の扉が開くか、判らない。
その時まで心も体もタフでいなくちゃ。




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