探訪 貴船神社から鞍馬寺 -4 鞍馬寺本殿・転法輪堂・九十九折参道・仁王門ほか
冬柏亭、与謝野晶子・寛の歌碑を見て参道を下ると、本殿金堂の西側、「光明心殿」の傍に出ます。冒頭の写真がその建物です。道の西側には「本坊(金剛寿命院)」があります。光明心殿の背後に見えるのが「鐘楼」です。光明心殿には護法魔王尊が奉安されています。悪魔降伏・災禍伐除などの護摩供を行う道場です。護法魔王尊像は松久朋琳作だそうです。(資料1,2、以下適宜参照) 本殿金堂光明心殿の前を通り、本殿金堂のある境内地「金剛床」と称される区域に入ります。南西寄りから本殿金堂を眺めたところです。 正面から眺めた本殿金堂鞍馬山の中腹に南面して建っています。遙か先に京都市内を望むという感じです。金堂内部は、外陣・内陣・内々陣に分かれています。外陣には土足のままで入って拝観できます。護法魔王尊(脇侍、役行者・遮那王尊)を中央に、右に毘沙門天王、左に千手観音菩薩が御本尊として安置されています。護法魔王尊・毘沙門天王・千手観音菩薩は三位一体とし「鞍馬山尊天」とも称されます。御本尊は秘仏で、60年に一度、丙寅年に開扉されることになっているそうです。そのため、普段は御前立ちの諸像も安置されています。 左の写真は、金堂の正面、三間の向拝を近くから撮ってみた写真。右の写真は、金堂を南東側から撮ってみました。訪れた日が毎年6月20日の午後にこの本殿前で行われる「竹伐り会式」の少し前でしたので、張り出し舞台が設置され、長い青竹が置かれていて、行事の準備が進められていました。これは鞍馬寺の年中行事の一つで、「一に蓮華会(れんげえ)ともいう。長さ4mの青竹4本を大蛇に見立て、山刀をもった8人の鞍馬法師が4人ずつ、東の近江方と丹波方にわかれ、合図によって三段に伐り競い、本坊にはやく駆け込んだ方を勝ちとする。これによってその年の稲作の豊凶を占うという」(資料2)ものです。太さは15cmくらいあります。破邪顕正と水に感謝するという意味を込めた千年の古儀、伝統行事なのです。 本殿金堂の前には阿形・吽形の虎の像が安置されています。これは吽形の虎です。本尊の毘沙門天王が、「寅の月、寅の日、寅の刻」に鞍馬山に出現されていることから、虎は毘沙門天のお使いの神獣となっています。「五十音が『あ』から始まり、『ん』で終わることから『阿吽』は、宇宙のすべてを包含すると言われています。(資料1)本堂金堂の建物の前が「金剛床」と称されます。これは「宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模し」(資料1)ているそうです。 金剛床の南には、擬宝珠の付いた朱色の欄干の張り出し舞台があります。大きな平板な石が置かれていて、注連縄が張られています。この石が「翔雲台」です。この石は、「もと本殿背後の崖上に営まれた経塚の蓋石とつたえる」(資料2)ものといいます。 金剛床にある大きな青銅製灯籠。八角形の火袋には四天王像がレリーフされています。 本殿金堂の東側には、「閼伽井護法善神社」があり、水の神が祀られています。金剛床のある境内地の東端に、休憩所の建物があります。 参道石段を下ると、「転法輪堂」があります。現在の建物は1965年に再建されたもの。山の斜面に建てられていますので、階下は「洗心亭」と称する無料休憩所になっています。ギャラリーが併設されているようです。堂内には、丈六の木造阿弥陀如来坐像が安置されています。見応えのある仏像です。「もと鞍馬本町の柏堂(かやどう)に安置してあったのを、明治初年に移したといわれる」(資料2)平安時代、比叡山より鞍馬寺に移り止住した重怡(じゅうい)上人が晩年の13年間、堂内に籠もり毎日12万遍の念仏を唱えつづけたそうです。そして六万遍の弥陀宝号を書いて法輪に納めたのです。この法輪が安置されています。「一転の南無阿弥陀仏、その功徳六万遍の称名に等し」ということが、この転法輪堂の名前の由来となっているそうです。 参道を挟み、転法輪堂の反対側に「寝殿」(左の写真)があります。貴船神社のご紹介の折りに名前が出て来ましたが、貞明皇后が鞍馬寺行啓の際に、休憩所として建造された寝殿造りの建物があります。(非公開)寝殿の隣に、右の写真の「巽の弁財天社」があります。弁財天は学芸・財宝を司る福神として信仰されています。ここも通過点になったのですが、後で調べていて、水琴窟が付設されていることを知りました。参道を下っていくと、中門の手前で、こんな石垣が目に止まります。鞍馬山の斜面を開削して伽藍を築くことの必然でもあります。左の写真の石垣の角近くに、「石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん 鞍馬石)」の説明板が立っています。「高さ6mのこの石垣は、鞍馬石で、花背峠近辺や百井の別れに近い山中から産出する。約1億年前に、地下の深所で丹波帯の堆積岩中にマグマが貫入してできた。」(説明板を転記)また、中門を過ぎてから本殿までの石段、つまり下ってきた石段は、「主として石英閃緑岩(鞍馬石黄褐色)と閃緑岩(青黒色)で出来ている」という説明板もあります。 中門この場所に移築されて、「中門」と称されるようになったのです。「元来、山麓の仁王門の横にあって勅使門または四脚門と呼ばれ、朝廷の使いである勅使の通る門」(資料1)だったとか。この中門を出てからの参道は、連続する石段ではなく、坂道がくねくねと曲折する「九十九折参道」です。この九十九折参道に沿っても色々な物が目に止まります。まず、中門に近い坂道の傍に、信樂香雪初代管長の歌碑が建立されています。 つづらをりまがれるごとに水をおく やまのきよさを汲みてしるべく その先で一筋の水が流れ落ち、またその少し先には「碑句」の駒札が立つ碑があり、俳人二人の句が刻されています。 筒鳥に神尊ければ磴けはし 海道 花杉に息のにごりは許されず 佳子 参道を下ります。 朱塗りの橋が見えます。このあたり一帯が「双福苑」と呼ぶそうです。天に向かって聳える杉を「玉杉大黒天」と尊崇し、神木の傍にある祠は「玉杉大黒天」と「玉杉恵比寿尊」だとか。いずれも福徳の神ですから双福と称されるのでしょうね。 双福苑から少し下がると、「いのち」と名付けられた澤村洋二作の像があります。鞍馬山尊天を具象化した像と言われています。「像の下部に広がる大海原は一切を平等に潤す慈愛の心」、3つの金属の環は「曇りなき真智の光明」を表し、「中央に屹立する山は、全てを摂取する大地の力強い活力」を象徴しているとされます。慈愛と光と力の像なのです。この像を見た時、私は仏典で説かれる須弥山を連想しました。また、右の写真はさらに下ったところに建立されている「箏曲稚児桜之碑」です。これは五條の橋での牛若丸と弁慶にまつわる故事を称えるための碑だそうです。 川上地蔵堂傍に立つ駒札は「遮那王と称した牛若丸(義経公)の守り本尊である地蔵尊がまつられており、牛若丸は日々修行のときにこの地蔵堂に参拝したといわれる」と説明しています。参道を下るとき、この川上地蔵堂に目が止まり、参道の反対側を見落としました。反対側の辺りが東光坊跡であり、かつて牛若丸が住まいした場所だったのです。東光坊跡に昭和15年建立の「義経公供養塔」があるのです。もう一つ、道すがらにあるという「火祭や鞍馬も奧の鈴の宿」という句が刻された「山本青瓢歌碑」も見落としました。少し、残念な思い・・・・。由岐神社を横目に見ながら、今回は通過となりました。下山する参道傍に建てられた「御由緒」説明板によると、現在の祭神は、大己貴命(別称大国主命)と少彦名命で、相殿が八所大明神です。この神社の起源は、御所に祀られていた「靫(ゆき)明神」(由岐大明神)がこの地に遷座されたことにあるのです。天慶3年(940)に天慶の乱が起きたとき、朱雀天皇の勅により、旧暦の9月9日に、天下泰平・万民の守護神・北方鎮護として、遷宮された鎮守社なのです。この折り、里人がかがり火を持って神霊を迎えたといいます。その様子を「鞍馬の火祭」が今に伝えているようです。鞍馬の火祭の祈願がこの由岐神社にあったのです。「鞍馬の火祭」は例祭として、10月22日の夜に行われています。 石造鳥居の先の建物は、豊臣秀頼が再建した荷拝殿(重文)だそうです。鞍馬山の斜面に沿って建てられいますので、前方は舞台造(懸造かけづくり)となっていて、中央に石の階段の通路が設けられた「割拝殿」という様式になっています。由伎神社傍の参道をさらに下ると、「鬼一法眼社」があります。「鬼一法眼は牛若丸に『六韜三略』の兵法を授けた武芸の達人といわれる。武運の上達を祈願する人も多い」(柱の木札を転記) 魔王の滝鬼一法眼社のすぐ近くに眺められます。 石像が安置された祠の下部に石の樋が設けられかなりの落差で滝が設けられています。直下でこの滝の水を浴びる修行が行われるのでしょうか。流れ落ちた水はその下方にある放生池に導かれるようです。魔王の滝の鳥居から少し先、放生池との間に「吉鞍稲荷社」があります。名前の通り稲荷社と言うことですが、正面に、「吉鞍稲荷大明神」と「荼柷尼天尊」の2つの扁額が掛けられてあるところが興味深いところです。 そして「普明殿」まで下りてきました。ここはケーブルの山門駅です。普明殿には毘沙門天立像が祀られているそうです。普門殿の前の石段を下りると、可愛らしい「童形六体地蔵尊」が安置されています。傍に立つ駒札にはこう記されています。「子供はみんなほとけの子。子供は天からの預りもの。子供は親の心をうつす鏡」と。仁王門に至る少し手前に、この石標がまず建てられています。「町石(ちょういし)」と称されるものです。ここを起点として、本殿まで一町ごとに同様の町石が建てられています。傍に掲示された説明によれば、八町七曲りの九十九折参道に八基が建てられているそうです。石標は八町から始まり、一番上が一町と表記されています。つまり、一町と刻された町石を確認できれば、本殿まではあと一町(=110m)を残すだけとわかるのです。そして、観音菩薩立像が祀られている「還浄水」が、仁王門のすぐ近くにあります。仁王門から入ると、まずこの「観音・還淨水」が目に止まるのです。 仁王門 現在の仁王門(山門)は明治44年の再建によるものですが、左側の扉は寿永年間(1182-1185)のものだそうです。仁王尊像は湛慶作と伝えられています。湛慶は運慶の嫡男です。仁王門の正面右側の柱には、「鞍馬弘教総本山鞍馬寺」の大きな木札が掛けてあります。鞍馬寺が「鞍馬弘教」と名付けられたのは昭和22年(1947)で、昭和24年に鞍馬寺が天台宗から独立し鞍馬弘教の総本山となったのです。その結果、初代管長が大正のはじめ頃に入寺した信樂香雲師ということになります。鞍馬寺の沿革を辿ると、駒札にも記されていますが、奈良時代末期に遡ります。「『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763年)の高弟・鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀る草庵を結びました。」(資料3)というのが、鞍馬山の開創とされています。鑑禎(かんちょう)上人は律宗に属した僧です。その後、延暦15年(796)に藤原伊勢人(いせんど)が貴布禰明神のお告げにより王城鎮護の道場として伽藍を造営した折りには、毘沙門天と千手観音を一体として併せて祀ったそうです。毘沙門天信仰に観音菩薩信仰が加わります。伊勢人はかねてより観音を祀るにふさわしい霊地をさがし求めていたとされています。伊勢人の孫・峰直の帰依をうけた峯延(ぶえん)上人が鞍馬寺の別当となり、中興の祖として鞍馬寺の基礎をかためたそうです。峯延上人は真言宗の十禅師とも言われた僧だとか。つまり寛平年間(889~898)に真言宗のお寺になります。その後天永年間(1110~1113)に天台座主・忠尋(ちゅうじん)が入寺し、天台宗に改宗されます。天台宗の影響が加わるのです。一方、古来より鞍馬山は山岳宗教の要素をもつ地でもあり、古神道、修験道等の影響がある地です。つまり、鞍馬山は長い歴史の過程で様々な信仰、宗派の影響を受け、宗教伝統が培われてきた場所なのです。護法魔王尊・毘沙門天王・千手観音菩薩を三位一体とし「鞍馬山尊天」とも称される由縁なのでしょう。(資料2,3,4,駒札)鞍馬寺、鞍馬山は文学の観点でも有名です。由岐神社の傍を通り過ぎるとき、「源氏物語ゆかりの地 鞍馬寺 北山の『なにがし寺』候補地」という案内板が目に止まりました。『源氏物語』若紫の巻の冒頭は、源氏の君が周期的に起こるマラリア風の病気をわずらったという描写から始まります。加持祈祷をしても効験がなくて困っていると、「ある人、『北山になむ、なにがし寺といふ所にかしこき行ひ人はべる。去年の夏も世におこりて、人々まじなひわづらひしを、・・・・』」と記されていきます。すぐれた修行者が、去年の夏の流行病の折りまじないも効かず困っていた人々を即座になおしたと言う例をある人が源氏に伝えるのです。その修行者を呼び寄せようと源氏の君は使者を使わすのですが、「老いかがまりて室の外にもまかでず」と返答するのです。年老い、腰も曲がり、部屋から出ることもありませんのでという返事。そこで、仕方なく、源氏の君が4,5人ばかりの供を連れるだけで北山のなにがし寺に出向くのです。この後の描写に、鞍馬寺をモデルとしていることを想定させるいくつもの事柄が出てくるという次第。(資料5)清少納言も『枕草子』の161段「近うて遠きもの」として、「宮のべの祭。思はぬはらから、親族の仲。鞍馬のつづらをりといふ道。師走のつごもりの日、正月の朔日の日ほど」と述べ、九十九折参道に言及しています。また、79段では、「頭の中将の御消息とて、『昨日の夜、鞍馬に詣でたりしに、今宵、方のふたがりければ、方違になむ行く。・・・・』と、のたまへりしかど、・・・・」と記しています。当時から鞍馬参詣は有名だったのでしょう。(資料6)菅原孝標女が『更級日記』を書いています。その日記の終わり近いところに、「鞍馬・石山」に参籠したことを記しています。「春ごろ鞍馬に籠もりたり。山ぎは霞みわたりのどやかなるに、わずかに野老(ところ)など掘りもて来るもをかし。・・・」と記し、10月に再び詣でたときの景色の良さをつづきに述べています。 奥山の紅葉の錦ほかよりおいかにしぐれて深く染めけむと詠嘆しているのです。(資料7)勿論、歌にも詠まれています。手許の本には、和泉式部、清少納言、赤染衛門、藤原清正、御形宣旨、三条西実隆の歌が載っています。江戸時代の後期に『雨月物語』を書いた有名な上田秋成もこんな歌を詠んでいます。(資料2) 墨染の鞍馬の寺と聞きつるは雪にあかるき山路なりけり 後は終着点の叡山電鉄「鞍馬」駅に向かいます。駅前にはこの巨大な天狗の面が参拝客を出迎えています。 そして駅舎の内部には、天井に「鞍馬の火祭」で使われる松明の一例が飾ってあり、プラットホームの柱にはズラリと烏天狗の面が掛けられています。こちらは参拝客のお見送りです。なぜなら、ホームの柱に駅舎方向に向かって掛けてあるのです。その下に、ちゃんと「お気をつけて!」と。これで,今回のウォーキング行程を探訪記としてご紹介しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 鞍馬山案内図 :「鞍馬寺」2) 『昭和京都名所圖会 洛北』 竹村俊則著 駸々堂 p225-2373) 歴史 :「鞍馬山」4) 鞍馬寺 :「日本の遺産」5) 『源氏物語 1』 新編日本古典文学全集 小学館 p199-2016) 『新版 枕草子』 石田穣二訳注 角川文庫 上巻 p96 下巻 p577) 『更級日記(下)』 訳注 関根慶子 講談社学樹文庫 p99-102補遺藤原伊勢人 :ウィキペディア輿で鞍馬へ出かけよう :「風俗博物館」心と身体を癒やしてくれる大自然の宝庫 鞍馬寺 :「伊藤久右衞門」2013/06/08撮影 京都鞍馬寺の鐘楼 :YouTube鞍馬寺で竹伐り会式 :YouTube 鞍馬竹伐り会(たけきりえ)式。 :「お話歳時記」鞍馬の火祭 :「京都新聞」烏天狗 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 貴船神社から鞍馬寺 -1 貴船口から貴船神社・本宮に探訪 貴船神社から鞍馬寺 -2 貴船神社・結社から奥宮へ 探訪 貴船神社から鞍馬寺 -3 木の根道経由で鞍馬寺奧の院・義経堂・冬柏亭に