探訪 京都・山科 山科本願寺旧地を巡る -1 山科本願寺と蓮如上人御廟所
これは山階小学校の前に掲示されていた緊急避難場所の案内図です。今回の探訪に役立ちますので加筆し利用したいと思います。江戸時代に出版された『都名所図会』に「山科本願寺の旧地」という見出しで紹介されているこの項目に関心を持っていました。以前にほんの一部を訪れたことがあります。今回はそれを推し進め、「山科本願寺旧地を巡る」というテーマで探訪することにしました。未だその旧地全域を巡ってはいませんが、ご紹介を始めていきたいと思います。山科本願寺は、「花山の巽にあり。第八代蓮如上人、文明年中の建立なり。実如・証如三代住職し給ひて、宗風繁茂して堂舎滔々たり。遂に佐々木定頼が為に回禄に及ぶ。」とまず同図会は説明しています。そして、その続きに「いま山科御坊と称して東西本願寺の懸所三ケ寺あり。蓮如上人の塚は旧地の西にあり」と記しています。(資料1)この蓮如上人の塚が、山階小学校の北隣に赤い丸を付記したエリアにあります。まずは、この「蓮如上人御廟所」を訪れました。地下鉄東西線「東野駅」を起点にしました。国道1号線の北側歩道を西に進むと、府道117号線(旧醍醐街道)が交差する「国道東野」に至ります。上掲地図に茶色のドットを追記したところです。歩いて行くと、国道1号線を横断する地下通路の入口(黒丸のところ)が目印になります。一方、 その少し先は、四ノ宮川(左)と山科川(右)の合流地点です。 3月29日時点で撮ったここでの桜も、今は満開になっていることでしょう。逆に、国道1号線を西方向から来ると、この川の合流する橋の近くにある、 「西本願寺山科別院」という道路標識(黄色の丸のところ)が一つの目印になります。さて、黒丸の位置で右折して府道を北に進みます。 まず、山科川に架かる橋(黄緑色の丸のところ)を通過。右の写真は橋を渡り振り返った景色。東海道新幹線の高架が国道1号線の水浴側に併行しています。 2つめの橋(空色の丸のところ)は四の宮川に架かっていて、橋を渡ったところに、「山階小学校」があります。 この橋から、「西本願寺山階別院」が四ノ宮川の左岸にあるのが見えます。 道沿いに進むと、左側(西側)に「蓮如上人御塚道」(マゼンタ色の丸のところ)と太い文字を刻した道標が道の角に見えます。府道117号線から、西方向に廟所の唐門を遠望できます。 正面から廟所域を眺めた景色。この左側に山階小学校隣接しています。石灯籠の竿には「中祖御廟」と刻されています。 唐門の両側正面は透かし塀で、他の三面は築地塀で囲まれています。 唐門に向かって右側に、「蓮如上人御廟所」碑が立っています。背面を見ますと、東西本願寺両派が昭和56年(1981)3月に合同で建てられたことがわかります。 第八代の蓮如上人は浄土真宗の中興の祖です。蓮如は寬正6年(1465)東山大谷を追われます。北陸を拠点とし各地での布教活動の後、1478年に山科・西野の土地を「山科野村郷の名主海老名五郎左衛門から土地の寄進を受け」(資料2)、同12年以降本願寺の再建に着手します。1480年に御影堂、翌81年には阿弥陀堂が竣工しました。上記、文明年間の山科本願寺建立です。(資料2,3) 駒札によれば、蓮如上人は明応8年(1499)3月25日に85歳で示寂。翌26日に葬送され、荼毘に付された後に、埋葬されたと言います。埋蔵地に御廟が建てられたということです。この場所がその地ということになります。唐門、透かし塀の隙間から、廟所内を覗いてみました。 唐門から真っ直ぐに石畳の参道が延び、途中で参道の両側に石垣が設けられ、廟所内にさらに墳墓を囲む外延の境界が築かれています。また石柵で囲まれた墳墓の手前に拝所が設けられています。 墳墓は八角形の石柵で囲まれています。また、とくに墳墓上に墓石などの建造物はなさそうです。樹木が見られるだけ・・・・。 唐門の屋根は胴板葺きで、獅子口も割とシンプルな意匠です。 唐破風の屋根を支える笈形は厚板に線刻した簡素な形式で、蟇股には竜胆が透かし彫りにされているように見受けました。 動きを感じる線彫りです。 シンプルな木鼻ですがきりとした感じ。 この廟所区域内に、井戸がありますので、かつては廟所の周辺にも堂宇が存在したのでしょう。そこで、かつての山科本願寺がどういう状況だったのかという関心事です。蓮如の建立した本願寺は実如・証如と継承される間に広大な山科本願寺・寺内町が形成されて行くことになります。「宗風繁茂して堂舎滔々たり」と記述されるようになるわけです。古地図がないものかとネット検索してみました。大谷大学博物館が2016年度に企画された特別展「戦国乱世と山科本願寺」のチラシを発見。それから引用します。(資料4) 大谷大学所蔵の古地図「寺の周囲、南北1.5キロメートル、東西1キロメートルの範囲に土塁(土居)と濠をめぐらせて城郭をつくり」(資料2)という様相を呈する本願寺・寺内町となっていたそうです。しかし、この山科本願寺は、天文元年(1532)8月23,24日の両日、細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍と戦い、敗れて灰燼に帰しました。山科本願寺の戦いです。(資料2,3,5,6)山科本願寺は53年の歴史で幕を閉じます。ここまでで2つの懸念が残ります。1)山科本願寺の戦いにおいて、蓮如上人の塚は破壊されずに残っていたのか。2) 駒札に記述のとおり、明治政府が蓮如上人の塚の場所を官地としたとき、その区域を接収したあと、改変したりせず温存していただけなのだろうか。です。こういう疑問に応える文書類が残っているのでしょうか。手許の一書には、最初の疑問について「旧地は蓮如の墓だけを残し、永く廃墟となるに至った」(資料2)と記しています。天正年間(1573-1592)、顕如上人が豊臣秀吉から旧地を譲り受けたと言います。勿論蓮如上人の塚を含めて旧地(山科本願寺)の一部ということになるのでしょうね。そして蓮如上人の塚を管理するために、享保17年(1732)に東西本願寺の山科別院が建立されるに至ったそうです。(資料2)山科本願寺域を現在の山科地域に重ねるとどうなるのか。 (山科本願寺の城郭部分/昭和62年度のカラー空中写真)これはウィキペディアの「山科本願寺」に掲載されている図の引用です。(資料5)この引用図で見ると、この後探訪した西本願寺別院と東本願寺別院を含め、かつての山科本願寺において、「外寺内」と称された区域に位置することがわかります。この項の最後に一つ触れておきます。西本願寺山科別院を出て、東本願寺の山科別院長福寺に向かう時に、 この廃墟(?)の前を通りました。蓮如上人御廟所からだと北東方向ですが、同じく山科区西野大手先町に所在します。南側には、 碑文銘板が嵌め込まれていたと思える石碑があり、 北側には池が造られ石橋が架けられた庭園がここにあったと想像できます。これは何だろう? 後日、インターネット検索してみてわかったことは、 この石積みの基壇上に蓮如上人像が造立されていたということです。戦時中、銅像などの金属供出の対象となり撤去されてしまったそうです。当時は寺々の梵鐘などもその対象になっています。ここに歴史の爪痕が残されていることになります。御廟所からまず、西本願寺山科別院に向かいました。つづく参照資料1) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p3012) 「山科本願寺の半世紀」 :「おこしやす山科」3) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p318,3194) 2016年度特別展「戦国乱世と山科本願寺」 :「大谷大学 博物館」5) 山科本願寺 :ウィキペディア6) 山科本願寺の戦い :ウィキペディア 補遺蓮如さんの生涯 :「本願寺文化興隆財団」蓮如上人の生涯 :「吉崎御坊蓮如上人記念館」寺内町 :ウィキペディア山科本願寺南殿跡 :「コトバンク」山科本願寺跡及び南殿跡 :「文化遺産オンライン」「山科本願寺跡および南殿跡」史跡追加指定 :「文理閣編集室だより」山科本願寺の追加指定 史跡で地域に活気を 取材ノートから :「京都新聞」歴史と地理な日々(新版) ホームページ寺内町の広場 ホームページ醍醐街道 京都府道117号小野山科停車場線 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)