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カテゴリ:探訪
冒頭の写真は、大阪城の大手門に向かう手前で撮った南外堀の景色です。左の写真に大手門が小さく見えます。 外堀沿いに歩き、少し違う角度から大手門周辺の全景を撮りました。大手門の左に見えるのが「多聞櫓」です。 内堀を横切る大手門への坂道の手前に案内地図が設置されています。 左の写真は、手前が千貫櫓で、遠方に緑青色の屋根の天守閣が見えます。 「城の正面を大手(追手おって)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに再建された。正面左右の親柱(おやばしら)の間に屋根を乗せ、親柱はそれぞれの背後に立つ控柱(ひかえばしら)との間にも屋根を乗せた高麗門(こうらいもん)形式である。屋根は本瓦葺(ほんかわらぶき)で、扉や親柱を黒塗総鉄板張(くろぬりそうてっぱんばり)とする。開口部の幅は約5.5m、高さは約7.1m。親柱・控柱の下部にはその後の腐食により根継(ねつぎ)がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手(つぎて)は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門野左右に接続する大手門北方彫掘・大手門南方掘も重要文化財に指定されている。」(説明板を転記) 大手門を通り抜け、内側から見た「大手門」右扉と「市多聞跡」(黄色丸印の場所)
大手門から入った正面の櫓の背面になります。続櫓(つづきやぐら)の外観 左の写真の左端に階段が設けられていて、そこが内部特別公開の入口になっています。 階段上から、南外堀の西端部分の掘を見下ろした景色です。
櫓は板張り壁で、武者窓が設けられています。窓の一つから、大手門を見下ろしたのが右の写真です。
多聞櫓は、枡形に面した武者窓と銃眼の設けられた壁面、長い通路部分、城の内側に板敷の各種規模の部屋が一列に続く、長屋風の内部構造です。 「この部屋はいざ戦いというときに兵士たちが籠城して寝泊まりするためにつくられたもの。多聞櫓は大手門を防御する兵士が詰めた。 この部分は続櫓(つづきやぐら)と称され、「西側すなわち大手門の側に銃眼を備えた笠石の並ぶ幅一間半(約2.73m)の板張り廊下が真っ直ぐのび」(後掲の説明パネルから引用)ているのです。
大手門とその内側の枡形を見下ろす景色。右の写真は大門のある多聞櫓側です。
大門の階上部分の建物内部は板敷の大広間空間ですが、そこがこのようなパネル掲示による説明に使用されていました。櫓・枡形・土橋・狭間などの城の構造に関する用語の説明パネルの展示です。 大門の階上、武者窓から枡形を見下ろした眺め。枡形になだれ込んだ敵軍をまさに狙い撃ちで迎撃する感じがわかります。 「細長い石垣や土塁上に迫りあがるような形で築かれる長屋形式の建造物を多聞造りという。多聞櫓とはそういう様式でつくられた櫓の一般的な呼び方で、起源は、松永久秀(1510?-77)の居城大和国多聞山城において初めてこの形式の櫓が築かれたことによる。 大阪城内に現存する多聞櫓はこの大手口枡形のもののみだが、かつては京橋口、玉造口や本丸桜門などの各枡形にもあり、それらは焼失してしまった。また各地の城にも多聞櫓が見られるが、その規模においては総高17.7mの大阪城の多聞櫓が随一である。
渡櫓の大広間 様々な展示に利用されています。「櫓解体修復遺品」の展示。
渡櫓の西端。多聞櫓の出口になります。 出口を出たところから多聞櫓の城内側、西端からの眺めです。 この後、千貫櫓に向かいます。 つづく 補遺 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! スポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -2 千貫櫓・西の丸庭園・焔硝蔵ほか へ
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Last updated
2016.06.27 08:58:31
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