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遊心六中記

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茲愉有人

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2016.09.29
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カテゴリ:探訪


安威は「あい」と読みます。茨木市の一地域ですが、かつては摂津国島下郡に属する四郷の一つです。この安威地域にある史跡を見学する講座に参加しました。その復習を兼ねて記録写真を整理し、ご紹介します。

JR「茨木駅」前に集合し、まずは安威の北部までタクシーに分乗して移動します。府道46号線(旧道)の「桑原」バス停が最寄りになります。
冒頭写真は高台でタクシーを下りて、北方向を眺めた景色です。それほど高くはないですが、山々が間近に見えます。後で地図を調べますと、山間を南に流れる安威川の上を府道46号線(新道)が高架となって横切っています。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。

安威川は丹波亀岡の竜ヶ尾山を水源とし、南流して平野を形成しています。安威はその北部にあたり、古代には中臣藍連の拠点地であり、中世に安威氏が在地領主として活躍したそうです。(資料1)



最初に訪れたのが「地福寺」です。現在は浄土宗に属し、山号は桑原山。

石段を登り山門をくぐると、正面に本堂が見え、手前右側に観音堂があります。

全体的にお寺の建物が新しいのです。なぜか? 元々地福寺のあった場所が安威川ダム事業により水没地となるため、西方高台の現在地が代替地となり移転されて、平成15年(2003)に新築されたのです(資料2)。翌年に本堂再建新築落慶法要が厳修されています(資料3)

『桑原山地福寺縁起』によれば、孝徳天皇の時代に中臣鎌足が創建し、鎌足の長男定恵の師である僧恵隠の開基と伝えられているそうです。中臣鎌足がこの安威の地で蘇我氏打倒を祈り、蘇我入鹿暗殺の計画を練ったといわれているとか。藤原鎌足没後、ここに廟があり、後に奈良の談山神社の地に移葬されたと伝わっているのです。(資料1,2)
645年の大化改新の後に、鎌足は藤原姓を天皇から賜ります。

「平安末期には九条家領の安威荘が展開した」地であり、安威の「北方の山中には桓武天皇の兄である開成皇子の伝承をもつ山岳修行系の寺院」が展開しているそうです(資料1)
九条家は藤原北家ですので、中臣鎌足以来この地域が藤原系統に踏襲されていることになりますね。手許の辞典で九条家を引くと、次のように説明されています。
「藤原氏の一支族。五摂家の一つ。藤原(=九条)兼実に始まり、京都九条殿に居住。摂関に任じられたほか、鎌倉幕府との関係が深く、頼経、頼嗣はそれぞれ四代・五代将軍となった」(『日本語大辞典』講談社)

現在の地図で見ると、北方向に大門寺・千提寺・忍頂寺という地名がありますので、山岳系寺院の展開と多分関係するのでしょう。調べていませんのであくまで想像しての解釈ですが。


門を入った左側に手水舎


本堂には、本尊阿弥陀如来坐像が安置されています。
中世には真言寺院でしたが衰微し、天正年間(1573~92)に専譽流念が浄土宗寺院として再興したとされ、現在に至ります。

新築された故でしょうか、頭貫・蟇股・木鼻の文様はシンプルです。正面に「地福寺」の扁額が掛けてあります。


本堂の右側には、地蔵堂があります。石造地蔵菩薩立像が祀られています。


 
観音堂内には、御堂風の厨子が見えます。堂内に入り拝観することができました。



厨子には千手観音像を本尊とし、毘沙門天と不動明王を脇侍とした三体の仏像が安置されています。この千手観音像には康正3年(1457)の修理銘があるそうで、14世紀に造立された像と推定されいるのです。毘沙門天像の彩色も色鮮やかです。(資料1)

『桑原山地福寺縁起』によれば、「春日明神作の千手観音と不動・毘沙門天の脇侍を地福寺の本尊とする」と記されいるそうです。つまり、かつてはこちらの千手観音像が地福寺の本尊だったとみられるようです。(資料3)


厨子に向かって右側にある小さな厨子には、鮮やかに彩色された役行者像が祀られています。


手水舎の背後、築地塀の近くに、鐘楼があり、道路からもよく見えます。

  鐘楼屋根の鬼瓦


山門を入って、すぐ右側の築地塀の内側に、石造品が並べて保存されています。
これも、以前の境内地に建立されていたものが、本堂移転と同時に移転されて現状の形に整備安置されたのです。

 
石造五重塔 (大阪府指定文化財)
石塔は古代インドで作られた釈迦の墳墓(ストゥーパ:仏塔)がその源であり、中国を経由して日本に伝来され、三重塔、五重塔のような形式が生み出されました。根本的には供養塔としての意義をもつものです。

この石造五重塔の基礎に、徳治3年(1308)3月14日の日付とともに、「敬白奉立石塔一基」「願主比丘尼生阿」という銘が刻まれているそうです。鎌倉時代の作ということになります。
初層塔身に四方仏が薄肉彫されています。相輪も当初の石材のようです。この石塔の高さは約1.8mあるそうです。(資料1,駒札)

 
左隣には石造「六地蔵板碑」が並んでいます。こちらは茨木市指定文化財です。
花崗岩の自然石を利用し、3体ずつ2段に六地蔵が彫られたその上、頂部には阿弥陀如来像と推定される像が彫られています。
右の写真ですが、板碑の外枠下辺に「天正八庚辰」と刻銘されています。天正8年は1580年です。(資料1,駒札)

中世には、六道輪廻するという思想が広まります。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天道であり、六道の世界にはそれぞれ、地蔵がいると説かれます。『蓮華三昧経』という経典では地蔵に6つの名前がつけられているそうです。この考え方が広まり、六地蔵をつくるということがさかんになります。墓地の入口に六地蔵が建立されているのをよくみかけますが、この考え方の現れです。つまり、六道にそれぞれ地蔵がおられて衆生を救うというのです。(資料4)
その六種類の地蔵には「宝珠ほうじゅ・宝印ほういん・持地じち・除蓋障じょがいしょう・日光にっこう・檀陀菩薩だんだぼさつ(『日本語大辞典』講談社)という名称が付されています。ほかにも説があるようです。六地蔵というのはこの6種類の地蔵の総称ということになります。

 
六地蔵板碑の左には、石造「十三仏板碑」が並んでいます。同様に茨木市指定文化財。
これも花崗岩の自然石が使われています。それぞれ二重円光を備えた三体の尊像が、半肉彫の坐像姿で4段に配置されていて、頂部の中央に、虚空蔵菩薩が配され、その上に天蓋が表現されています。
こちらの板碑も、外枠外右に「天正9年(1581)2月□□」の刻銘があります。

十三仏は、地獄の十王に、七回忌・十三回忌・三十三回忌での審理を司る裁判官、それぞれの本地とされる仏の総称だそうです。三十三回忌の裁判官が法界王で、その本地仏が虚空蔵菩薩とされているのです。閻魔王の本地仏が地黄菩薩とみなされています。(資料5)


そして、一番左端には、これから板碑の彫刻を始めようとした段階に止まる石が並んでいます。

地福寺を後に台地を下って行きます。
お寺から少し道路沿いに下ると、「桑原」のバス停です。

この桑原の地名の由来には2つの説があるそうです。
1) 第21代雄略天皇の時代(在位456~479)の頃、中国から呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)がここに住み着き、桑田を開き養蚕したことから桑原になったととなえる説。2) 平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録』によると、大和の国の桑原を本籍とする高麗系の渡来人「桑原史(ふひと)」が当地周辺を居住地としていた。史とは物事を記録する役人ということで職業をさしています。この桑原の姓を地名にしたという説。
この地域が中臣鎌足の居住地だったことから、後者の説の方が有力視されているそうです。(資料3)




道路を下っていくと、東西方向の尾根が見えます。20基以上の古墳がある「安威古墳群」だとか。

 
安威川に架かる橋を渡ります。



川の流れを見つつ下ると、
 
「長ケ橋北詰」です。橋を渡って右折していくと、道路脇にこの道標が立っています。通り過ぎて振り返えったのが、右の写真です。

 

この写真のマンションの背後に見える山にも、古墳があるそうです。


大念寺を訪ねる手前で目に止まった道標です。「安威起点」と記されています。

私が関心を抱いたのはその下に記された「キリシタン自然歩道 茨木市」という言葉でした。
調べてみると、茨木市が設定されている自然歩道だそうです。
「阿為神社を起点に全長12.2キロメートル、所要時間4時間のコースです。途中には、キリシタン遺跡をはじめ、おさん茂平恋道中碑、初田1・2号墳などのたくさんの史跡があります。この自然歩道は千提寺で長谷方面と泉原方面に分かれています。」(資料6)

脇道に逸れますが、最初に訪れた地福寺の北東方向に「千提寺」という地名があります。この茨木の山地部にある千提寺や下音羽は、かつては高槻城城主だったキリシタン大名・高山右近の領地だったそうです。そして、千提寺は「隠れキリシタンの里」として有名なのだとか。このことは知りませんでした。
この千提寺に、昭和62年(1987)に、「茨木市立キリシタン遺物資料館」が開設されているのです。(資料7)
そこから、「キリシタン自然歩道」という名称が付けられたのだと分かりました。
機会があれば、このルートを辿ってみたいと思います。

今回は新情報の副産物を得たという余談にとどめます。
大念寺に向かいます。

つづく

参照資料
1) REC講座「関西史跡見学教室27 ~茨木・安威~」当日配布レジュメ
   (2016.9 .8    龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)
2) 地福寺(茨木市) :ウィキペディア
3) 58.地福寺 :「発見!探検!いばらき観光」(茨木市観光協会公式ウェブサイト)
4) 『仏教民俗学』 山折哲雄著 講談社学術文庫 p116-118
5) 十三仏  :ウィキペディア
6) キリシタン自然歩道  :「茨木市」
7) キリシタン遺物史料館のご利用案内  :「茨木市」

補遺
中臣鎌足 :「コトバンク」
九条  摂家 :「公家類別譜」
地蔵菩薩 :ウィキペディア
 「六地蔵」の小見出しがあります。
茨木市立 キリシタン遺物史料館 :ウィキペディア
キリシタン資料館パンフレット pdfファイル

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 茨木・安威を歩く -2  大念寺・阿為神社・安威古墳群 へ
探訪 茨木・安威を歩く -3 安威城跡・大織冠神社・将軍塚古墳・ 鼻摺古墳ほか へ






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Last updated  2016.10.01 13:21:35
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