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カテゴリ:探訪 [再録]
[探訪時期:2015年6月]
北国街道を歩いた続きです。北国街道の西側沿いにある安藤屋敷の斜め前(北東)に黒い壁で、少し特異な建物が見えます。現在は浄土真宗大谷派の「慈雲山淨琳寺」です。 非公開のお寺です。説明板が掛かっています。 元は浅井郡尊勝寺に在って、蓮如上人に帰依して真宗のお寺になり、天正元年(1572)9月、小谷城の落城の後に、こちらに移されたそうです。 「寛政10年(1798)、権律師恵天の時、太鼓部屋を建て(表の建物)寺子屋を開いて子弟に教授する」と記されていますので、この建物が「太鼓部屋」にあたるのでしょう。 屋根の上にある楼閣に太鼓が置かれているのでしょうか。黒壁の部分には、虫籠窓が設けられています。 本尊は安阿弥作と伝えられる木造阿弥陀如来立像で、今浜時代の長因寺伝来の阿弥陀如来立像も安置されているそうです。 今浜というのは、羽柴秀吉がこの地の領主となって「長浜」と改名するまでの地名です。また、権律師というのは、僧綱と言われる僧官の職である「律師」の中のレベルの一つです。律師は大律師、律師(中律師)、権律師という区分があったようです。そして、この律師は僧位としては、法橋上人位に相当するのだとか。(資料1)安阿弥は鎌倉時代に活躍した慶派の仏師・快慶の号です。快慶の作風は「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれています。(資料2) 街道沿いに「長浜キリスト教会跡」の石標が目に止まりました。「天香さん修養の場」という言葉が側面に刻まれていて、角柱の上面には「近代日本の求道者 西田天香さん」と記し肖像画が描かれています。 西田天香さんは、明治5年(1872)にこの長浜の地に生まれた人。20歳の時には、「長浜地方の小作百姓百家族を率いて北海道に渡り、500ヘクタールの土地の開拓事業に従事した。その将来は、事業家としても大いに嘱望された」のですが、その後求道者として生き、「一燈園生活」を創めた人です。1968年2月に96歳で逝去。一燈園は現在、京都・山科にあります。 (資料3) 長浜市内には、他に大通寺の近くも含めて、幾つか天香さんに関わる石標が建てられています。 街道沿いには、町屋が維持され、お店が営まれています。 ここにも紅殻格子が続いています。古美術商「西川」の紅殻格子の前に置かれた天水桶(てんすいおけ)はかつての雰囲気がイメージできていいですね。 北隣りのお店「翼果楼」は食事どころ。翼果というのはモミジの種子のことだそうです。初めて知りました。湖北の家庭料理「サバそうめん」が名物のよう・・・・。焼きサバとそうめんを炊き合わせた料理です。(資料4)二階部分を眺めると、町屋のとなりとの境に、漆喰の塗られた防火壁「うだち(/うだつ)」が設けられています。 街道と交差する道が「大手門通り」です。辻に立てば、東の方に大手門通りの商店街とアーケードが見えます。アーケードの側面には、長浜名物・曳山と子供歌舞伎の様子が目に飛び込んでくる意匠となっています。街道から二筋東の博物館通りには、「曳山博物館」があります。 この辻の北東角にあるのが、「黒壁ガラス館」(左)。北国街道から右折して、少し大手門通りに入ったところから建物を部分的に撮ってみました。通りをみると、千成瓢箪を連想する意匠の蓋(右)に気づきました。もう一つのマンホールの蓋は撮り忘れ!またの機会に・・・・・。 この黒壁の建物、元は「黒壁銀行」という愛称で親しまれていたのです。明治33年(1900)にできた国立第百三十銀行長浜支店だったのです。(資料5) 第百三十銀行は大正12年まで存続し、大正12年に保善銀行に合併されます。保善銀行は同年、安田銀行と改称。それがさらに戦後の財閥解体の後、富士銀行と商号変更。そして変遷を経て、現在のみずほ銀行に。(資料6) 千成瓢箪は秀吉の馬印です。秀吉が美濃の稲葉山城攻めで戦功を上げた折、信長から馬印を持つことを許されたのです。この戦のときに腰にぶらさげていた瓢箪を馬印のモチーフにしたのだとか。たしか、戦で戦功をあげるごとに、瓢箪を増やして行った・・・・そんなことを昔聞いた記憶があります。 千成瓢箪関連でみつけたおもしろい記事を末尾の「補遺」にいくつか取り上げておきましょう。 大手門通りのアーケード内を東に歩むと、通りを横切る形で米川が流れ、「長浜大手門見返り橋」が架かっています。橋の手前、北側の広場スペースにあるモニュメントの傍にも、前回ご紹介と同種の石標があり、近くに右の説明碑もあります。説明碑は当日取りあえず写真を撮っておいたものです。 これでまた,ご紹介してきた石標の意味が明確になりました。この説明碑は、「豊臣秀吉公と朱印地」を説明したものでした。その具体的な地域が地図に記されていますが、それは現地に行かれたときにご覧ください。説明文の要点を箇条書きにしてみます。 *秀吉は長浜の城下町建設で町民を誘致するために町屋敷年貢を免除する政策をとる。 *天正19年(1591)5月9日の朱印状により、町屋敷年貢免除は300石の範囲と確定した。 *年貢免除地は秀吉が去った後も継承され、江戸時代に彦根藩もこの朱印地を追認した *長浜52町のうち、朱印地内35町、朱印地外15町、両者入組2町である。 *朱印地境界石柱は「従是西長浜領」(これより西長浜領)などと記される。 朱印地を「長浜領」と表現している。 町屋敷年貢の免除地自体を「長浜領」と記したのがおもしろいですね。江戸時代に長浜を統治した彦根藩が「長浜領」という言葉を使ったというのですから。年貢免除を継承したからこそ、自治組織を推進させたのでしょうね。藩政からみれば、管理費を抑えられることにもなるでしょうから。 「長浜大手門見返り橋」から米川の北側の眺め 見返り橋上から、米川の南東側を見たところ。 この橋の東詰めにある町屋の表側を見て、ここにも右の写真の石標の示すように、天香さんゆかりの場所でした。石標には「玉八商店西家 天香さん下坐 初体験の場」と刻されています。 下座行というのは、仏門での修行のはじめにお堂や庭の掃除などをする行のことのようです。「『下座行』とは、自分の身を低くし、人から顧みられないようなことについて、手足を汚すことを厭わずに行うということです。トイレ掃除などは、まさにこの『下座行』そのものであり、この行いを続ける中で、自分とその周囲の環境を変えてきたわけです」(資料7)という説明も見出しました。 天香さんの活動に、「六万行願」というのがあり、その2つめに「清潔-不浄の掃除」というのがあります。(資料8) 「一軒一軒、下坐の奉仕をつづけてゆく運動『六万行願』」というページ(「一燈園」公式サイト)には、「下坐 一番下の事をさせてもらう」という記載があります。 1919年(大正8)に国際連盟が発足しましたが、天香さんは、「同参を募り、バケツをかかえ、雑巾を手にして、一軒、一軒、隣からまた向かいへと合掌しながら訪れ、下坐の奉仕をつづけてゆく運動をはじめられた」といいます。 つまり、天香さんがこの「下坐」を初めて体験されたところということなのでしょう。 この町屋の玄関の戸が開けてあり、不可思議な人形飾りが置かれているのが見えました。「下坐の奉仕」を表象した人形でしょうか・・・・・。 大手門通りは「ながはま御坊表参道」に突き当たります。その北西角が金屋公園です。 公園に、このモニュメントがあります。これは平成16年(2004)7月に、秀吉公ゆかりの石碑・石柱建立事業実行委員会のシンボル・モニュメントとして設置されたものです。兵庫県の彫刻家・牛尾啓三氏の青みかげ石製の作品で「碑・永遠(いしぶみ・とわ)」です。 牛尾氏は、らせん状の円環で無限の可能性、広がりを表現する「メビウスの輪」の一連の作品を創作されています。(資料9) 例えば、モニュメント「夢レンズ」(牛尾啓三氏の作品)が兵庫県立舞子公園にあります(資料9)。もっと知りたい方は、こちらをご覧ください。(「環境(循環型)造形・石彫モニュメント・記念碑 Keizo Ushio」)(資料11) この突き当たりで左折して、「ながはま御坊表参道」を大通寺まで歩きます。 そこでまず目に止まるのが、このモニュメントです。「お花きつね」のむかし話に由来します。 「お花きつね」のむかし話は、こちらをお読みください。(「こどもたちに伝えたい ながはまの『むかし話』」) また、明治の初めごろ大通寺に単身赴任してきたお坊さんにまつわる「花きつね」の不思議な話というのもあるようです。こちらをお読みください。(「大通寺の天井に住むきつねの伝説」) 参道の先には、米川が横切っていて、その橋の南詰めに「十軒町」の石標(左)があり、近くの建物の傍に駒札(右)があります。 欄干にはキツネの頭部がこの橋のエンブレムとなっていて、おもしろい。 米川の上流側(東)は石垣積みの景色が趣を感じさせ、一方、下流側(西)は城下町の町屋の風情が溢れる場所です。 ながはま御坊表参道は、既にご紹介している大通寺山門が正面に見えます。 これで、今回の長浜のまちの歩きのご紹介をもって、探訪記を終わります。 ご一読ありがとうございます。 参照資料 1) 僧位 :ウィキペディア 2) 快慶 :ウィキペディア 安阿弥 :「コトバンク」 3) 『西田天香語録』 一燈園出版部 4) 翼果楼 ホームページ 5) 黒壁について :「黒壁」 6) (株)百三十銀行 銀行変遷史データベース :「銀行図書館」 富士銀行 :ウィキペディア 7) 「下座行」のススメ 謙虚な姿勢 (掃除) :「二葉鍼灸療院長のドタバタ活動日記」 8) 西田天香 :ウィキペディア 9) Nagahama Art Project 10) モニュメント「夢レンズ」 :「舞子公園」 11) 彫刻家 牛尾啓三 ホームページ 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。 補遺 長浜駅周辺散策マップ pdfファイル 長浜曳山(ひきやま)まつり :「長浜・米原・奧びわ湖」 長浜曳山まつり :「e-nagahama.com」 曳山博物館 ホームページ 長浜曳山まつりフォトサイト 千成瓢箪 :「とある旗屋の舞台裏」 郷土英傑行列・秀吉隊~第55回名古屋まつり :「おじさんの縁側日記」 京都【豊国神社と豊臣秀吉】 :「いい町.net」 下座行とは :「人の心に灯をともす」 一燈園 公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) 探訪 [再録] 湖北(米原・長浜)の名園 -1 福田寺庭園(国指定名勝)へ 探訪 [再録] 湖北(米原・長浜)の名園 -2 赤田氏庭園、大通寺の庭園 へ 探訪 [再録] 湖北(米原・長浜)の名園 -3 大通寺細見・山門 (庭園鑑賞の前後に)へ 探訪 [再録] 湖北(米原・長浜)の名園 -4 大通寺細見・境内 (庭園鑑賞の前後に) 探訪 [再録] 湖北(米原・長浜)の名園 -5 長浜のまちを歩く(1)(庭園鑑賞の前後に)へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2017.01.09 14:23:06
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