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遊心六中記

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2017.01.13
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カテゴリ:探訪 [再録]
  [探訪時期:2014年3月]
冒頭写真は前回ご紹介した2つめの「登り石垣」を再び取り上げました。違うアングルから撮っていたものです。この両サイドの石垣の形からすると、ここにも櫓があり門が設置されていたようです。「御城内御絵図」を見ますとそのような描き方になっています。(資料1)
この角度からだと、竪堀のあった状態がより鮮明です。
この場所は、次のルート図の③(赤字番号3)の箇所です。



登り石垣あたりで、内堀沿いの石垣の上から内堀の北方向、つまり琵琶湖方向を眺めるとちょうど観光舟が来ていました。


        

              



 

   
     石垣の内側の土塁上の樹木の根の張り具合に樹木の生命力を感じます


観光舟を眺めていて目にとまったのが、もう一つの門、「山崎門」です。
内堀の中に門から張り出した傾斜地が遺っています。文化11年(1814)に作成された上記絵図をよく見ると、この山崎門には橋が明確に描かれています。
また、内堀の外側(西側)の石垣が写っています。この石垣の先端は写真の左側(西)から中堀の水が合流していくるところです。内堀・中堀がこの地点で繋がっているのです。これは後で引用する図で明瞭にご理解いただけるでしょう。



「山崎門」を石垣上と曲輪側から撮ってみました。

ここは通常の櫓門の形式だったようです。(資料2) 山崎曲輪は赤字番号3の左斜め上の場所です。


米蔵跡から登り石垣の傍を通過し、山崎曲輪前の枡形を横断して山崎曲輪に入り込んだところ。(④から北に入ったあたり)
   
             琵琶湖側に面した山崎曲輪の石垣
右写真に見える橋の先が現在の中堀に合流しています。

かつては、再び引用するこの図のとおり、山崎曲輪の北辺側は堀というよりも松原内湖の一部だったと考えるべきなのでしょう。(資料3)

                 曲輪の東寄りからの景色です。
  
左写真は山崎曲輪前の枡形の南東角近くから山崎曲輪方向の眺め
右写真は南東方向に向かう石垣と内堀の眺め
    
石垣上から東方向の景色内堀の外の左方向に現在野球場があります。ライトが写っています。
 
南東方向へ向かう通路は、天守閣方向に上っていく道と分岐します。

いったん坂道を上りきったところで右折すると「観音台」です。(ルート図⑤)
写真は登りきった場所で振り返った写真。坂道が写真の右側になります。

                   観音台の入口からの曲輪の眺め

「出曲輪」へは緩やかな坂道を上ります。これは坂道の途中から「観音台」方向の眺め

 手前が「出曲輪」の石垣を坂道から見上げたところ。
その先には「西の丸三重櫓」が聳えています。

彦根城が天下普請で築城された狙いは、德川氏による西方作戦構想の一環で重要な防衛線とするためでした。火力の能力が向上していたとはいえ、当時の大砲の能力では彦根城の山城の建物に致命的な破壊力を及ぼすほどには至っていないこと。また、西方から攻められた場合、善利(芹)川が防衛線にもなる上に、「彦根城下は低湿地を埋め立てて造成されたため地下水位が高く、1mも掘れば水が湧き出したという。これでは対壕を掘ることは困難であろう」ということも想定できるとか。
また、この山崎曲輪には、築城当時は井伊家の中で最強部隊だと言われる木俣土佐(きまたとさ)の組が守備していたそうです。敵軍が攻めてきた場合に、ここを拠点に主逆襲を発動しやすくする作戦があったのではないかとも考えられています。(資料2)

彦根城の西側は、米蔵跡を挟む形でその北と南に登り石垣が築かれています。
既にご紹介してきたとおりです。これはここに德川幕府御蔵米倉庫が設置されていたので、それを守るという狙いもあったとか。敵が城山の斜面移動するのを封鎖する狙いは米蔵を守ることにもなるわけです。(資料2)

      
では、出曲輪に上って行きましょう。

つづく

参照資料
1) 御城内御絵図 :「彦根市」 
2)『戦国の堅城』 歴史群像シリーズ 学研 p157-163
3)「彦根城ガイドブック」 彦根市教育委員会文化財部文化財課
   ”彦根の城下町 西川幸治著『城下町の記憶』より加筆転載”を引用

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
曲輪 :ウィキペディア
枡形 :「コトバンク」
松本城大手門枡形跡の発掘調査 :「松本市」
彦根藩 :ウィキペディア
木俣土佐 → 木俣土佐守守勝武功紀年事記 :「彦根市」
木俣守勝~井伊家を筆頭家老として支えた名将  :「戦国武将列伝Ω」
井伊家 家臣団  :「戦国時代の実像」
井伊直政家臣団の形成と徳川家中での位置  小宮山敏和氏 論文 pdfファイル
井伊氏の家臣団  :「箕輪城と上州戦国史」
相関図 龍潭寺・井伊家家臣  :「NHK おんな城主直虎」
井伊家 最後の家臣  :「㐂の屋 KINOYA」

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Last updated  2017.01.16 15:47:21
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