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遊心六中記

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2017.01.26
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カテゴリ:探訪
 
                  法住寺の山門  [探訪時期:2017年1月 & 2013年10月] 
京都国立博物館に行く時に、三十三間堂の東側にある法住寺の境内に立ち寄りました。2013年10月には法住寺を拝観しています。ベースはこの時の探訪写真とご紹介文です。再録にあたり適宜加筆修正しました。
 (2017.1.12)
法住寺は天台宗のお寺です。通りに面して2つの門があります。こちらが表門となる山門です。

もう一つは龍宮門の様式です。

山門の南側、蓮華王院の南大門に近い方に龍宮門があります。今年の1月15日、雪景色を目にして撮ったのがこの写真です。

             普段は2013年に撮ったこの写真の雰囲気です。

門に向かって右側に歌碑が建てられています。『梁塵秘抄』に所載の一節が刻まれています。
    あそびをせんとやうまれけん 
『梁塵秘抄』に所載の歌は、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の聲きけば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」というものです。(資料1)

歌碑の左側に立つ石灯籠の六角柱の竿には、「法住寺法華堂陵前」と刻されています。
 門の少し前方に、この石標が建てられています。
三十三間堂のご紹介で記していますが、後白河法皇は建久3年(1192)3月に亡くなられ、蓮華王院の東の法華堂に葬られたと言われています。この法住寺の北側の築地塀沿いに、法住寺の背後になる後白河天皇法住寺陵への参道があります。養源院の南隣で、法住寺の東側が陵墓なのです。この法住寺は元和7年(1621)後白河天皇の御陵(法華堂)を守護するために妙法院によって建立されたお寺なのです。後白河上皇の法住寺殿址に因んで寺名が付けられたのです。(資料2)
冒頭の写真、門前に建つ寺標の一番上に「後白河院御聖蹟」と刻されているのはそのことを意味します。

蓮華王院(三十三間堂)はもともと後白河上皇が長寛2年(1164)に法住寺殿に一宇の仏堂を建立し、1001体の千手千眼観音像を安置し、蓮華王院と称されたのが起こりです。この三十三間堂を造営したのが平清盛だったのです。
この辺り一帯の広大な敷地に、法住寺御所並びに堂塔伽藍が築かれてたわけですが、寿永2年(1183)の木曽義仲軍による法住寺殿焼き打ちに遭います。破壊された後に修理された三十三間堂は建長3元年(1249)、洛中の大火の延焼に遭い焼失しました。現在の三十三間堂はその後、後嵯峨上皇の熱意によって伽藍が再建されます。その三十三間堂が現在私たちが目にしているお堂です。他の堂宇はその後の兵乱などで再び焼失してしまうのです。(資料2,3,4)

 
山門を入ると左側にお堂があります。
 
     
堂内中央に、厳島弁財天と豊川荼吉尼天が分祀されています。 

その小社の両側には、様々な仏像が安置されています。
 
向かって左手には「白峰弁財天、竹男大龍神」、右手には「毘沙門天王、護法魔王尊」と刻された扁額が懸けられています。
 
山門を入り正面にある建物(多分、庫裏と言ってよいのでしょう。)


       
境内の右手、南側に石畳を行くと本堂に至ります。
 
石畳の途中に、百度石の石標が建てられています。右写真は南側から北方向、山門を見た景色です。


(2017.1.12)
本堂の近くにあるのが上掲の龍宮門です。
(2017.1.12)
2006年に改修された新本堂です。2つの建物が隣り合って建っており、西側がこの本堂東側に摂取堂があります。

本堂には、本尊不動明王が安置されていて、この不動明王が身代わり不動とも言われていて、この名称で親しまれているのは門前の寺標にもこの言葉が刻されているのでお分かりでしょう。堂内は残念ながら撮影禁止でした。
身代不動明王には、方除け厄除けの信仰があるようです。

「法住寺殿が木曾義仲の焼き討ちに合った際、院の御所に攻め入った義仲の矢は当時の天台座主に当たった。天台座主のおかげで法皇が難を逃れたことから『身代わり不動尊像』と呼ばれることになったという。」のだとか。なぜだろう? と思って調べていたら、こんな説明があったのです。(資料5)

本堂の前には護摩木が焚かれる護摩法要のための、方形で白砂を敷き詰めた区画があります。上掲の区画を間近に眺めました。


築地塀の傍には、六地蔵はじめ地蔵尊が沢山安置されています。
         




 
龍宮門のすぐ近くには、銅像の地蔵菩薩立像も建立されています。
この地蔵尊は左手に幼子を抱かれ、足下には地蔵尊を慕い見上げる幼子がいます。
この様式の地蔵菩薩立像を私はこのとき初めて拝見しました。



 その傍に、福寿観音立像の祀られた小祠もあります。


山門から入り、石畳を歩んでくると、左手・東側には摂取堂の前の庭に向かう中門が見えます。

                     中門を正面からみたところ
右手には摂取堂、中門の向こうに見える屋根は山門正面の建物とを結ぶ渡り廊下です。
丁度この中門のずっと奥が後白河天皇の御本陵になるのです。
門前の駒札には、陵墓のことと併せて、親鸞上人自作と伝える阿弥陀如来像と親鸞「そば」食い像の名称も記されています。

堂内を拝見して新たに知ったことは、赤穂浪士の義挙、つまり忠臣蔵で有名になった大石良雄が義挙の成就をこの寺の不動明王に祈ったという言い伝えがあるそうです。
そこから、本堂内の左手脇には、赤穂浪士四十七士の木像を安置されているのです。
忠臣蔵ゆかりのお寺でもあります。




                        摂取堂の前(北側)の庭



                  摂取堂からの渡り廊下の東側の庭

摂取堂内には、親鸞ゆかりの木像が安置されています。
一つは、親鸞が自作したと伝えられている阿弥陀如来像です。
もう一つが親鸞「そば」食い木像と称される像です。

この「そば」食い像には、不思議な言い伝えがあるのです。手許の本(資料2)から、その話を引用させていただきます。
「叡山西塔で修行中の親鸞は六角堂に百日間参籠すべく、秘かに下山した。同宿の僧が怪しみ、師匠に告げたので、師匠はにわかに弟子達を集め、「そば」をふるまい、それとなく親鸞の所在を確かめたところ、木像が親鸞の身代わりとなって、『そば』をたべたという。」(p108)
この像は東山渋谷にあった仏光寺に移され、明治初年に法住寺に移管されたといいます。

明治に入って、神仏分離令が発令されました。御陵は宮内庁の管理となり、お寺は御陵から分離されたのです。それで寺名が大興徳院と改称されていたのですが、昭和30年(1955)に法住寺という旧号に復したという経緯があるようです。

大石良雄ゆかりのこの法住寺と同様に、大石がしばらく隠棲した山科の地に、岩屋寺があります。
山科に自転車で出かけたとき、大石良雄隠棲の地と岩屋寺及び大石神社を探訪しました。岩屋寺は知らずに現地に行ったのですが、説明板を読んで拝観し、この岩屋寺に赤穂浪士四十七士の木像が安置されていることを知ったのです。
事前情報なしの探訪から、赤穂浪士の木像が少なくとも京都に2箇所で大切に祀られているということを発見した次第です。

法住寺でお寺の方とお話していて、泉涌寺の子院にも大石良雄ゆかりのところがあるということを聴きました。
ネット検索してみて、来迎院というお寺がそれに該当しているようです。いずれ探訪してみたいと思っています。

最後に、山門に戻ります。この1月に、南大門の鬼瓦からこの近辺寺院の鬼の造形を「京都・東山七条あたりの鬼たち」として、ご紹介しました。その時、この法住寺にはほとんどふれていません。なぜか? そのご紹介です。
何度もこの山門前を通り過ぎながら、意識していなかったのです。私にとっては新発見!
 
山門の屋根棟の両端が鬼瓦ではなく獅子口です。そして、隅棟の上部、獅子口に接するくらいの位置にこんな人面(?)の造形され飾り瓦が置かれているのです。山門を認識していても、細部をほとんど見ていなかった!
 屋根の4箇所にあります。


大瓶束を中心とした笈形 全体の装飾彫刻が見事です。

蟇股は草花の透かし彫りが施され簡素な中に気品があります。


門扉には菊花が浮彫にされ、花の中央には三つ巴の紋が全体の動きを創り出しているようです。


     

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1)『新訂 梁塵秘抄』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫  巻第二 359番
2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則  駸々堂
3) 創建と歴史 :「蓮華王院 三十三間堂」ホームページ  
4) 『国宝 三十三間堂』 発行 三十三間堂本坊 妙法院門跡  p11-13
5) 法住寺 後白河法皇の身代わりになった不動と四十七士の寺:「HIGASHIYAMA」
 
補遺
法住寺 :ウィキペディア 
後白河天皇  :ウィキペディア 
妙法院 :ウィキペディア
来迎院 :「御寺 泉涌寺」公式サイト
京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告書 :「京都市埋蔵文化財研究所」
 法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡  2010年10月 

     ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.02.15 21:27:42
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