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遊心六中記

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2017.04.07
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カテゴリ:観照 [再録]
 [探訪時期;2017年4月]
円山公園の中央部の枝垂桜の場所から、北に向かうと知恩院の南門があります。

脇門の傍に、この駒札が立っています。
  南門の隅棟の先端の鬼瓦

門柱の足許、礎石のところを見ると、木製の覆いが付けてあります。この部分は金具で覆ってあるのをよく見かけますが、木製であることを今回初めて意識しました。意匠は金具の場合と同様ですので、こちらが古い形式なのかもしれません。

さて、この南門を抜けて東方向を眺めると、脇から迂回して緩やかな石段を上る形になっている脇参道があります。そして巨大な門が見え始めます。

正面に立つと「華頂山」の扁額を掲げた「三門」が見えます。文字は第112代霊元天皇(1663-1687)の宸筆によるものだそうです。(資料1,駒札)
この日、佛教大学の入学式関連の行事を行っているという案内説明が石段脇に掲げてありました。旗などの飾りが付けてあるのはそのためだったのかもしれません。


知恩院三門の全景です。石段上に三門が聳えている感じを受けます。門前円の左右で桜が満開でした。
三門周辺の桜を近づいて眺めます。

 
       
向かって右寄りで石段を登り始めます。

石段の両側から少し離れたところに、巨大な石灯籠が建てられています。右側の石灯籠は桜の木を反時計回りに廻り込まないと、石灯籠の全景が見られません。桜の花を楽しむだけに留め、石段を上ります。

 
 
               右側の石段脇途中に、「三門」の駒札があります。

普通、お寺は山号を持っていますので、お寺の門を「山門」と称します。この門を「三門」称するのは、浄土宗知恩院のこの門が、禅宗様式の門であることによるのです。
駒札の冒頭に記されていますが、手許の辞書を引くと、「三門」を次のように説明しています。
「(仏教語)禅宗の寺の正門。本堂を涅槃にたとえ、そこに至るために通らなければならない空・無相・無作の三解脱を門になぞらえたという。」(『日本語大辞典』講談社)
さらに佛教辞典では、もう少し詳しく補足されています。解脱門は、「迷いから解放されようとする者が通らねばならない門」を意味するそうで、これを寺院の門に擬えたのだとか。「必ずしも通路が三つなくてもよい。普通は重層で、左右両翼に山廊(さんろう)が付き、そこから階段で上層にのぼる。上層の内部は禅宗建築の他の様式とは異なって極彩色に荘厳し、仏壇の中央に釈迦三尊、左右に羅漢像を並べる。後には禅宗以外の伽藍にも設け、堂塔のように配置されている。室町初期の東福寺三門が最も古く、大徳寺・南禅寺・妙心寺・知恩院・増上寺・万福寺などが有名。」(資料2)

この地に建てられた知恩院の堂塔も、幾度か焼失と再建を繰り返しています。この三門は元和七年(1621)徳川二代将軍秀忠の寄進により建立されたものです。

三門の内側の南側に、この銅板「知恩院三門修理記」が設置されています。
その記載も参照しますと、慶長7年(1602)から徳川家康が知恩院伽藍の造営を行ったそうです。家康は浄土宗徒でもあり、生母伝通院の菩提を弔うという目的があったそうです。一方で、「京洛に事あるときは幕兵を駐屯せしめて警備の本陣たらしめようと計った」(資料1)という意図も秘められていたようです。寛永10年(1633)に知恩院は、この三門と勢至堂・経蔵を除いてまたもや焼失します。そして、寛永18年(1641)までに現在見られる伽藍に復興されたと言います。知恩院としてはこの三門が古い建物の部類に入ることになります。三門建立以降に屋根修理を初め小修理が繰り返し行われて来た経緯が記されています。そして、昭和61年(1986)~平成3年(1991)に、半解体修理が実施されたそうです。「構造・技法等当初の通りを踏襲した」と修理記末尾に記されています。

この半解体修理が実施されたときは、重要文化財の位置づけでしたが、平成14年(2002)に三門が国宝に指定されています。

 


石段の北側に目を転じてみると、三門の基壇部分の石垣がよくわかります。
桜の木は、築地塀の内側の方に多くあり、外側はそれほどでもありません。
 


 
 

石段を上りきると、開かれた三戸の門扉の向こうに、桜が見えます。

三門を入ると、更に石段が見えます。ここの石段は段差が大きく少し上りづらいものです。意図的にそういう設計なのでしょう。
両側の桜がきれいです。特に、左側(北側)の桜の見応えがあります。


 
こんな桜景色でした。


三門を出て、基壇上から南西寄りを眺めた景色です。
前方に見える建物は「知恩院和順会館」です。


円山公園を経由して、八坂神社石段下に向かう折、和順会館の前を通る時に目にとまったのがこの銅像です。
 
基壇の正面に「せいし丸さま」と記されています。

法然上人の幼名です。『法然上人絵伝』第一に、「所生の小児、字(あざな)を勢至と号す。竹馬に鞭をあぐるよはひより、その性(しょう)かしこくて聖人のごとし。やゝもすれば、にしの壁にむかひゐるくせあり。天台大師童稚(どうち)の行状にたがはずなん侍りける」という文章が出てきます。(資料3)
勢至丸が13歳のとき、天養2年(1145)に比叡山に登るのです。当初は喝食姿として、そして僧の身分を与えられた時に、源空と名づけられたといいます。その名は、『菩提心論』中にある「心の源は空寂なり」という意味をもつ言葉に由来するとか。源空は諱(いみな)であり、法然は房号だそうです。僧としてのフルネームは、法然房源空になるのです。(資料4)

最後に、三門にまつわる余談にふれておきましょう。それは「知恩院の七不思議」の一つに数えられている話です。三門楼上に二つの「白木の棺」が安置されていることにまつわる話です。知恩院のホームページに「白木の棺-不惜身命」という題で説明されています。こちらからご覧ください

脇道に逸れました。
知恩院三門の桜を眺めた後、四条通近くで昼食タイムとして、その後祇園白川畔の桜を眺めに行きました。

つづく

参照資料
1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p237
2) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房  p212
3) 『法然上人絵伝 (上)』 大橋俊雄校注 岩波文庫  p12
4) 『法然』 大橋俊雄著 講談社学術文庫 p68-69 

補遺
総本山知恩院 ホームページ
   建造物 三門(国宝、内部非公開)
知恩院和順会館 ホームページ

      ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

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Last updated  2017.04.08 11:24:24
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