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遊心六中記

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2017.05.21
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カテゴリ:探訪 [再録]
(資料1)
鈎の陣探訪に行く道は、実は旧東海道を歩いていたのです。              [探訪時期:2013年1月]
その時のレジュメに掲載の図がこれです。実線が前回ご紹介した現地探訪のルートです。一部実線と重なりますが、破線の付された道が旧東海道になります。

そこで、探訪のオプションとして歩いた東海道の手原~草津間を、Part 2 としてまとめる形で、JR手原駅近くの東海道から始めたいと思います。

この「手原」という地名の由来はなかなか興味深いです。ネット検索で知りました。
女が手を産み落としたという「手孕み伝説」が手原の地名の由来になったといいます。一方、同じ手孕み伝説でも、こういう由来もあるようです。
村造(むらみやっこ)の布佐という人が、男の子を授かりたいと願い、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀り、土地の守り神でもあった天ツ神(あまつかみ/天津神とも)に願いごとをしたそうです。毎日妻の腹の上に手を当ててお願いしたところ、願いが通じて男子が生まれたとか。この子供を手孕児(てはらみこ)と呼び、神の不思議な力を称たえたのだとか。この故事「てはらみこ」が「てはら・手原」になったとしています。

手原駅前正面の通りを南に少し歩くと、東西方向に交差する東海道が通っています。

                南東角に「稲荷神社」があります。

右折し東海道を少し歩くと、
 
左手に「旗本渡辺領代官猪飼邸」の立派な門構えが見られます。
 手原村には東海道に面して桶屋さんがあったようです。

 その先にこんな経度標識が建てられています。
 
東海道の道標の傍に、かつては「すずめ茶屋」と称する田楽茶屋があったのですね。
ここから前回ご紹介した足利義尚歌碑は僅かの距離です。

 


ゆかりの地石碑と歌碑のある公園の先の十字路が「上鈎東」です。右折すると鈎陣所跡へ。
このオプションとしての東海道歩きは、この交差点を渡ってそのまま直進です。

手原村から上鈎村に入ります。
 
道路沿いに、油屋や米屋という屋号の表示が出ていました。
 かつてここに存在したお店でしょう。
 旧東海道のこのあたりは「県道116」に名を変えています。
 
道なりに進むと、T字路の突き当たり。正面にま新しい道標が建てられています。
   左に行けば中郡街道、東海道は右折です。
この標識の側面には、次の説明が刻まれていました。
「坊袋・中世には治田鄕青地の荘域。江戸時代に坊袋村となり山城淀藩領。明治22年治田村大字坊袋となる。役場、小学校等があり、現在も治田学区の中心地。大日堂に市指定文化財、石造阿弥陀如来坐像(鎌倉時代作)西へ約200m」
 そのそばに、少し古い道標があります。
正面の「東海道」という文字の下には、「やせうま坂」という文字が刻まれています。
側面には「金勝寺 こんぜ」と刻まれています。

白州正子さんのエッセイに「金勝山をめぐって」があります。その中で、金勝寺は今は無住の寺であること、奈良の都の鎮護の寺でかつては狛坂寺と呼ばれたこと、『続日本紀』によると天平5年、聖武天皇が良弁に命じて創立されたことが記されています。この良弁については、「一説には、金勝山の麓で生まれた、百済の帰化人の子孫であったという。」とも記しています。金勝山の別名が狛坂寺であるとか。
著者はこのエッセイの中で、金勝山について、「昔は五十町の険しい坂道を歩いて登ったので、こんな所へは、二度とは『コンゼ』と人はいったという」というおもしろい一文も記していておもしろい。(資料2)

 
東海道を進むと、「浄土宗延命山地蔵院」の石標がありました。
その後にある説明板には、境内にある石碑について説明しています。
 
左の画像が説明板に記載の石碑。右の画像の立派な石塔も境内に建立されています。
多宝塔のように見うけますが、私には識別しかねます。
上段の塔身には「南無阿弥陀仏」下の塔身には「浄土三部経塔」と記されているようです。基壇部分には「三界萬霊」と記されています。
「三界」について、辞書は「(1)生死流転する迷いの世界。欲界・色界・無色界。(2)三千世界。全世界」(『日本語大辞典』講談社)と説明しています。
こじんまりしたお寺でしたが、昔は大きな寺院があったのかもしれません。


そして、目川村に入ります。ここにも、東海道沿いに飴屋という屋号のお店があったのです。

通りの反対側にこんな牛馬の細工物が展示されていました。
おもしろかったので写真に撮っておいたのですが、ネット検索してなぜなのかがわかりました。
このあたり、往時は「目川立場」と呼ばれたところです。
そこで現在、「ほっこりまつり」が毎年行われるようになったようで、この牛馬の細工物はその時の出し物になったものなのです。補遺の「ほっこりまつり」をご覧いただくと、説明が出ています。お楽しみに!

「立場」とは、「街道などで人夫が駕籠などをとめて休息する所。明治以降は人力車や馬車などの発着所、または休憩所。」(『広辞苑』・第一版 岩波書店)「江戸時代、かごをかつぐ人夫などがつえを立てて休んだ道端の場所」(『日本語大辞典』)と説明されています。つまり、宿場町を出立した人が丁度一休みする距離くらいの場所に、立場茶屋が営業していたのでしょう。この目方立場もその一つだったようです。

歌川広重が「東海道五十三次之内」の52として、「石部<<目川ノ里>>」を描いています。こちらからご覧ください。(文化遺産オンラインのサイトに木版画が載っています)

この同じ茶屋が、『東海道名所図会』にも登場します。引用させていただきます。(資料3)


一方、『伊勢参宮名所図会』には、お店の中が絵図に描かれていて、おもしろいです。こちらも引用によりご紹介します。
         

 その少し先に、「一里塚」の道標がありました。


次回、目川の後半から始めたいと思います。

つづく

参照資料
1) 連続講座「近江の城郭 城・寺・街~中世近江の自治の世界」
    第3回 鈎の陣 鈎陣所跡  講義資料
2) 『かくれ里』 白州正子著  講談社文芸文庫
3) 東海道名所図会  巻之2/ 秋里籬嶌 [編] 寛政9[1797]
    :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)
4) 伊勢参宮名所図会  巻之2-5 / [蔀]関月 [編画] ; [秋里湘夕] [撰]
    :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
栗東歴史民俗博物館 ホームページ
手原稲荷神社 :「ばりかん!滋賀」
手孕説話   :ウィキペディア
男の子、授かります!? “手原”の伝説:「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」
地名のルーツ~手原~ :「自然体で、興味を持ったことを・・・・」
東海道ほっこりまつり・あかりの演出  :「滋賀・びわ湖 観光情報」
栗東市 東海道「目川立場」ほっこりまつり(2)
ほっこり祭  :YouTube
一里塚 :ウィキペディア
東海道の一里塚 :ウィキペディア
 「118里 - 目川 (滋賀県栗東市目川)」と載っています。
金勝寺 → 金勝山ハイキングマップ 
実盛物語 さねもりものがたり (「源平布引滝」):「歌舞伎見物のお供」
「源平布引滝」あらすじ :「以良香の文楽・浄瑠璃メモ」

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探訪 [再録] 滋賀・湖南 鈎の陣と東海道(手原-草津) -1 鈎陣所跡 へ
探訪 [再録] 滋賀・湖南 鈎の陣と東海道(手原-草津)  -3 目川立場・草津追分 へ







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Last updated  2017.05.21 23:10:11
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