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遊心六中記

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2017.05.25
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カテゴリ:歩く [再録]
 
矢倉小学校のすぐ南に国道1号線の野路町交差点があります。この交差点で一旦「かがやき通り」に入り、再び旧東海道に入ります。冒頭の「教善寺」というお寺が見えて来ます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。        [歩く&探訪時期:2015年12月」 

浄土宗のお寺で、本誓山来迎院教善寺という名称です。「びわ湖108霊場」の第101番札所であり、「近江湖南二十七名刹霊場21番札所」でもあります。本尊は阿弥陀如来立像です。(資料1,2)
『近江国與地志略』には、野路村にあり、承応二癸巳年建立、知恩院の末寺だと記載されています。(資料3)

鐘楼前の道路脇に、「草津歴史海道 東海道」の説明板があります。矢倉地区から野路地区に入ってきたところです。
                 
                        教善寺の近くで見かけた建物


教善寺の西に進むと、旧東海道に面して「遠藤権兵衛家」があり、この民家の庭に「平清宗」胴塚と伝えられる供養塔があるのです。
 
平清宗は父宗盛とともに、文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いにおいて義経により生け捕りとなります。鎌倉まで連れて行かれるのですが、このとき頼朝は義経が鎌倉入りすることを認めず、追い返します。近江まで戻ってきた義経の命により野洲篠原で宗盛が首を刎ねられ、この野路において文治元年6月21日、清宗は堀弥太郎景光により首を刎ねらたと伝えられています。清宗は17歳だったといいます。その首は京都六条河原に晒されたのです。(説明板より)

遠藤家のご好意で、庭に入りこの供養塔を拝見することができます。
よく見ると、宝篋印塔と五輪塔の残闕を組み合わせて供養塔にした感じです。宝篋印塔の塔身は普通は立方体ですが、この供養塔には五輪塔の水輪にあたるものが塔身に使われているからです。宝篋印塔において格狭間のある基礎の下に、少しサイズの小さい方形の石が置かれていますが、ひょっとしたら五輪塔の地輪にあたる石なのかもしれません。
これはあくまで私の印象ですが。

いずれにしても、上記の伝承がある故に、特に諸行無常の一端を感じる供養塔です。

この野路町にも史跡・遺跡案内板が設置されています。歴史探訪者にとては重宝する情報提供となっています。

その先に「新宮神社」の鳥居があります。鳥居の手前左右に、「新宮神社」「都久夫須麻神社」石標が立っています。この神社は今回通り過ぎるだけになりました。
都久夫須麻神社とは「竹生島神社」のことです。この都久夫須麻神社は「新宮神社」の境内社の一つという位置づけです。竹生島から勧請されたのでしょう。
新宮神社の祭神は、速玉男命・事解男命 です。(資料4)

ここからは旧東海道を離れ、立命館大学のびわこ・くさつキャンパスを目指しました。
        
草津市野路東に立命館大学のキャンパスが誘致される折りの発掘調査で「木瓜原(ぼけわら)遺跡」が確認されました。木瓜原の中心部である製鉄炉の部分が「製鉄炉地下保存施設」として、キャンパス内にある上掲の総合グラウンドの下に、地下保存遺跡として保存されています。大学に事前申請しておくと、その地下保存施設を見学できるのです。今回はJR草津駅からロクハ公園に歩く途中で迂回して、この遺跡の見学できるように今回のウォーキングのリーダーが行程を企画し、見学の手続きをしていてくれました。
かなり前に、この遺跡のことを新聞で知り、一度見学してみたいと思っていたのでうれしい限りでした。
これは当日キャンパスでいただいたリーフレットです。
広げるとA3サイズよりも一回りおおきなものになり、片面には折りたたんだ表紙の写真の遺跡区域が当時の復元想定図として描かれています。そしてこの「木瓜原遺跡」の簡略な説明が記載されています。

この遺跡は7世紀末~8世紀初頭のものだそうで、副題にあるとおり「古代の製鉄コンビナート」ともいうべき総合生産遺跡だとか。製鉄、製陶(須恵器すえき・土師器はじき)から梵鐘の鋳造まで生産していたと推定されています。このキャンパス域での発掘調査は13万㎡に及び、周辺に分布する一部の木炭窯を除いては、ほぼ遺跡の全体が調査されたそうです。(資料5)

ここは琵琶湖との比高が50mほどあり、なだらかな瀨田丘陵の一画になります。南西に方向4kmほどには近江国庁が位置します。この瀨田丘陵地帯では、他に製鉄遺跡として源内峠遺跡、野路小野山遺跡が確認されています。私は源内峠遺跡を一度探訪に行ったことがあります。製鉄遺跡の一部遺構の状況が復元されていました。

これは保存施設を出る際に階段を撮った画像ですが、グラウンド傍にある「製鉄炉地下保存施設」は結構深いところに位置します。
                         
階段を下りきったところにこのイラスト図が掲示されています。

保存施設は、製鉄炉遺跡の周囲に回廊が巡らされていて、この通路を周回して遺跡を見学できるのです。
 
これはリーフレットに掲載の施設図を引用させていただきました。

これは入口側とは反対の北北西地点、上掲設備図の上辺側通路から眺めた調査用トレンチです。この製鉄遺跡の内部構造を調査するために掘られた調査溝です。合計5本のトレンチが掘られています。
                    

                

                          

南東寄り、つまり設備図下辺の通路端近くからの全景

見学を終えて、キャンパスから目的地のロクハ公園に向かいます。
名神高速道路を挟み、北側に位置します。JR南草津駅との位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。


                         ロクハ公園 南ゲート     
「ロクハ」というのが何に由来するのかと調べて見ると、この地は昔は「緑波」と記されていたそうです。木々の緑を映して静かに水面が波打つ「緑波池」があり、この名前が由来となっているのです。緑波→リョクハ→ロクハという形で訛って変化をしたといいます。(資料6)
      
南ゲートの傍に駐車場エリアが西に、お花見広場が東側にあります。ロクハ池の西から北方向に、キャンプ広場、ピクニック広場、多目的広場、室内・屋外プールとつづくゆったりとした公園です。
右の写真は、南ゲートの近くにある案内図この公園のエリアガイドはこちらをご覧ください。


入口から少し中に入っていくと、ロクハ池が樹木越しに見えます。かなり大きな池です。                   
           


公園の一隅に「愛こそが平和をかなえる」という一文の銘碑を置いたモニュメントが建立されています。

公園内のバーベキュー広場の一隅で、同好会恒例の闇鍋会を実施。宴を終えた後は、正面ゲートの方からJR南草津駅に向かいます。
 
                        正面ゲートの近くにある花畑
 
             川原池  正面ゲートのそばにこの池があります。
 
「若人」と名づけられた彫刻像が目にとまりました。

  東矢倉南の交差点
   
   JR南草津駅が今回のウォーキングの終着点でした。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 第百一番 本誓山来迎院 教善寺 :「びわ湖108霊場」
2) 教善寺/滋賀  :仏像ワンダーランド
3) 『近江国與地志略 上』 :「近代デジタルライブラリー」
    173/214 コマ目上段に見出し項目があります。
4) 新宮神社 :「滋賀県神社庁」
5) 「木瓜原遺跡」 立命館大学   当日いただいたリーフレット 
6) ロクハの由来  :「草津市公園事務所・ロクハ公園」

補遺
木瓜原遺跡古代製鉄炉の見学受付  :「草津市」
木瓜原遺跡  :「立命館大学 学園通信RS」
木瓜原遺跡  :「立命館大学 秘密の扉 +R」
技術者の系譜~古代近江の金属生産~  栗東歴史民俗博物館
瀨田東文化振興会・源内峠遺跡復元委員会
新近江名所圖会  第23回 源内峠遺跡-甦った古代の製鉄遺跡- :「滋賀県文化財保護協会」
野路小野山遺跡発掘調査概報  :「全国遺跡報告総覧」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

歩く&探訪 [再録] 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -1  旧東海道沿いの史跡点描 へ

探訪 [再録] 瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて -4 近江国庁遺跡他 へ





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Last updated  2017.05.25 18:53:16
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