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遊心六中記

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2017.10.21
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カテゴリ:観照 [再録]
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10月22日は京都三大祭の一つ「時代祭」が行われます。時代祭は何度も見ていますが、2015年は三条大橋西詰交差点の北東角側から行列を見物しました。時代祭でみられる各時代の行列に思いを馳せて、まとめたものを再録します。(再録理由は付記にて)

今年(2017)は台風の接近で時代祭は中止という報道が昨日ありました。関係者は苦渋の決断をされたことでしょう。時代祭が中止となったという記憶は私にはありません。秋晴れの日のもとでの行列見物ばかりでなく、曇りや雨もよいの中で行列巡行を見物したという記憶はあります。やはり台風接近という事態ではどうしようもないことでしょう。
2015年の時代祭点描をあらためてご紹介します。多少とも雰囲気を感じていただければと思います。


パトカー1台と京都府警察の「平安騎馬隊」が平安時代の衣裳姿で時代祭の行列を先導します
2015年はその後に、冒頭のバナーを持って着物姿の美女がしずしずと進んできます。
 

バナーが2つ続きました。冒頭の写真の次がこのバナーです。
上の画像は「被衣(かづき)姿」です。手に市女(いちめ)笠を持ち、小袖、単、袿(うちぎ)を重ね着し、上腕から胸に見えるのが赤い懸(掛)帯。首に下げているのは懸(掛)守りです。足には緒太(草履)を履いています。「壺装束(つぼしょうぞく)」と呼ばれるスタイルです。中世の女人が物詣でや旅に出かける姿ですから、本来ならさらに、普通のものと比べて被衣(かづき)用に仕立てた袿を、袖を通して頭を隠すようにすっぽりと被って、付けている赤い懸帯で押さえているのですが・・・・・。被りの袿を省略しているお陰で、美しいお顔を楽しませてもらえるというところ。
もう一つの姿はこの時代祭では見かけませんでしたが、笠に「苧(真麻)」で作られた布を垂れたものを被る「虫垂れぎぬ姿」です。(資料1)

 
その後に馬車が二台続きます。市会副議長、府議会議長と記した小さな幟が馬車に取り付けてあります。御者の衣裳は馬車に合わせて明治スタイル、一方馬車に乗っている人たちは平安スタイルです。私には何とも奇妙に思える・・・・もの。時代祭-京の都-平安時代という連想での発想でしょうか? 馬車に搭乗しているのが、幟にある現職者なら現代のスタイルの方が幟とマッチするように思うのですが・・・・、まあいいか。
 
そして、幟が先頭にかかげられていますので、ここからが「時代祭」行列なのでしょう。
行列は逆時代順、つまり京都にかかわりのある時代の関係者などを時代を遡る形でプレゼンテーションしていくのです。「かかわりのある」というそのあり方と選択が、まさに「時代」観を象徴していると思います。

まず、京都の三大祭に触れておきたいと思います。
5月に下鴨神社・上賀茂神社で行われる「葵祭」が年中行事の最初。かつて京の都で「祭」といえば賀茂の祭でした。その起源ははっきりとはしていません。平安時代、大同2年(807)に賀茂祭(葵祭)は勅祭となりました。『源氏物語』の葵の巻では、4月、賀茂神社の葵祭に六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が源氏らの行列をひそかに見物に行きます。そこで起こるのが車争いの場面です。源氏絵では、この場面が様々に描かれていて有名なシーンです。(資料2,3)
この葵祭は中世に衰退、廃絶となります。そして「200年後の元禄7年(1694)復興したが明治維新で中断、明治17年にまた旧儀にもどされ、女人列を加えた、いまの姿に復活したのは昭和31年(1956)から(資料3)なのです。

7月には八坂神社と各山鉾町による「祇園祭」です。1日、神事始めの吉符入(きっぷいり)から始まり、29日の神事済奉告祭まで様々な行事が重ねられていき、約1ヵ月に及ぶ祭りが終わります。そのプロセスで特に有名なのが祇園祭宵山と山鉾巡行です。2014年から山鉾巡行が旧に復して、前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)に分けての宵山・巡行となっています。

そして、10月22日(雨天順延)が時代祭です。この祭は、明治28年に平安神宮が創立された時から始められた祭です。三大祭としては一番新しい祭なのですが、はや百数十年の歴史を刻んでいます。
「京都が日本の首都として千有余年にわたって培ってきた伝統工芸技術の粋を、動く歴史風俗絵巻として内外に披露することを主眼としている。このため各時代行列に使用する衣裳や祭具の一つ一つが、厳密な時代考証をもとに作製された"本物"であるところにその特徴がある。(資料2)ということで、約2,000名の参加と約2キロにわたる行列が練り歩きます。
時代祭行列の行列順路は平安神宮の公式サイトにあるページをこちらからご覧ください。

 
最初に登場するのが「明治維新時代」。先頭は「維新勤王隊列」です。資料2:以下も同じものは略)
 馬上の隊士

                                      鼓笛隊
三斎(さんさい)羽織に筒袖の衣、義経袴を身につけて、脚絆・足袋・草履で、刀をさしています。馬上の人は赤熊(しゃぐま)をかぶり、徒歩の隊士は鉢巻き姿。「赤熊」というのは、「(1)あかく染めた、ヤクの尾の毛。払子などに使う。(2)縮れ毛で作った、入れ毛」(日本語大辞典・講談社)という意味です。赤だけでなく、白や黒などの赤熊も被っています。

余談ですが、赤熊は能の「土蜘蛛」や歌舞伎の「連獅子」でも使われます。また、祇園祭の山鉾巡行の折に綾傘鉾で披露される「棒振り囃子」で棒振りを演じる人が赤熊を被っています。(資料4)
 
        
鼓笛隊の後に、鉄砲を携えた隊がつづきます。これは、丹波の国北桑田郡山国村の有志が組織して官軍に参加した「山国隊」の当時の行装を模したものだとか。

三条大橋東詰め、高山彦九郎の銅像が建立されています。高山彦九郎の眼差しの先にあるのはかつて天皇が住んでいた御所です。彦九郎さんが明治維新に存命していたら、この維新勤王隊列をどんな思いで見つめたことでしょう・・・・。高山彦九郎は江戸時代中頃の勤王思想家です。生前当時はたぶん奇人と思われていたかもしれません。この人が幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えたのです(資料5)。だからこそ、三条大橋のところに顕彰碑が建立されているのでしょう。子供の頃初めてこの像をみたときは、このサムライさん、どこ見て土下座したはんねんやろ?と思ったもの・・・・・。撮った写真を改めて見ていて、おもしろい組み合わせになっているなと思った次第です。
 
        
「勤王志士列」が続きます。幕末の志士として行列に登場してくるのが、まず桂小五郎、西郷吉之助、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作です

桂小五郎は明治になって木戸孝允(たかよし1833~1877)と改名します。西郷吉之助は勿論あの西郷隆盛(1827~1877)さんです。この二人、同じ年に逝去しているのですね。大久保利通を入れて「維新の三傑」と称されるようです。

木戸孝允は理想家肌で開明的な政治家ですが、一説には性格的に狭量なところがあったとか。健康には恵まれず晩年は病気がちだったそうです。京都護国神社の傍にある坂本龍馬始め志士たちの眠る墓域の一番高い場所に木戸孝允の墓があります。
西郷隆盛は、度量が大きく、清濁合わせ呑む包容力溢れる政治家だったようですが、維新後は征韓論を唱え、大久保と対立、木戸とともに下野します。西郷は西南戦争で擁されて反乱軍の総大将として敗北に期します。この時、西郷軍は約40,000人、政府軍は60,831人という記録があるとか。明治の新しい徴兵制による軍隊組織が威力を発揮したのです。この時の政府軍の戦費は、41,567,726円といいます。当時としては巨額な費用をかけたのです。

坂本龍馬(1835~1867)は世に親炙された存在。中岡慎太郎(1838~1867)は龍馬とともに円山公園に銅像が建立され、上記墓域には坂本龍馬の墓の隣に墓が祀られています。新撰組の襲撃による池田屋事件で二人は絶命します。三条大橋からほんの少しのところに池田屋跡の史跡碑があります。高杉晋作(1839~1867)は元治元年(1864)に奇兵隊を創設し、下関で挙兵し藩の主導権を握った人物。

 
        
そして、七卿落ち(しちきょうおち)が続きます。尊攘派に対し公武合体運動を始めた側が文久3年(1863)に8月18日の政変を起こし、尊攘派から朝廷内の主導権を奪います。その結果、尊皇攘夷派に与した三条実美や沢宣嘉ら7名の公家は京都を脱出し、長州藩に落ち延びるのです。(資料6)

吉村寅太郎(1837~1863)は、土佐勤王党の一人、脱藩して天誅組の総裁となった人物。東吉野の鷲家口で戦死します。すぐ近く、三条木屋町通りに寓居跡の史跡碑があります。それに続くのが梅田雲浜、橋本左内です。

梅田雲浜(1815~1859)は、若狭小浜藩士だった儒学者。攘夷を唱えロシア軍艦襲撃を企てています。井伊直弼排斥を企て、安政の大獄で獄死(資料7)橋本左内(1834~1859)は幕末の経略家で、福井藩士。蘭学・医学を学び藩医となっています。将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立に尽力したようですが、この人も安政の大獄で斬罪されています。(資料8)
 
         
     公卿:近衛忠熈、姉小路公知、三條實萬、中山忠能
そして、幕末期の公卿が続きます。近衛忠熈は公武合体派として活躍し、姉小路公知は逆に攘夷派の先鋒で三条実美と同じ考え。姉小路は朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われて暗殺されます。三條實萬も尊皇攘夷派で、武家伝奏として対米政策について江戸幕府と交渉した人だとか。安政の大獄では謹慎処分を受けたといいます。明治時代の元勲となっていく三条実美の父にあたる人。中山忠能は公武合体論をとなえ,和宮降嫁をすすめた後、萩藩の尊攘派を支持したことで、禁門の変後出仕停止となっています。娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、明治天皇を産んだことから、明治天皇の外祖父となる人。

 
         
 
         
 

時代は江戸時代に遡り、「徳川城使上洛列」となります。
徳川幕府は、年始及び朝廷の重要な儀式や大礼の折に、城使を上洛させて天皇に礼を厚くするという関係を維持したのです。政策的配慮なのでしょう。

そして、「江戸時代婦人列」となります。
 

まず最初が和宮(1846~1877)です。公武合体政策の象徴ともなった人。孝明天皇の妹で、徳川将軍家茂の夫人として江戸に降嫁して行った女性です。強引な政略結婚の当事者にされるのです。勿論尊皇攘夷論者から激しい非難が巻き起こります。この時の老中安藤信正(1819~1871)は坂下門外の変で水戸浪士に襲われた後、失脚します。(資料6,10)
京から江戸への長旅をした和宮の心境はどのようなものだったのでしょう。結果的に家茂との夫婦仲は良好だったようです。家茂は側室を置くことなく、和宮を生涯の伴侶としたようです。
和宮は「惜しましな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」という歌を詠んだと言います(資料11)和宮降嫁は東海道を利用せず、中山道を辿るのです。
 玉瀾
その後に続くのは、まず蓮月(女流歌人、後年尼となって蓮月と称した人)が続くのですが、撮るタイミングを逸しました。そして文人画家・池大雅の妻である玉瀾です。彼女もまた南画を描いた閨秀作家であり、歌人でもあったようです。

中村内蔵助の妻。中村内蔵助とは、江戸時代に京都銀座で巨万の富を築いた商人です。その妻は当時「衣裳比べ」に出たそうです。その折、内蔵助と親交のあった尾形光琳の助言により、敢えて地味な装いで登場し抜群の誉れを得たのだとか(資料12)その後に続く女性は不詳。内蔵助の妻のお付きという役どころでしょうか・・・。

そしてお梶の幟の後にお梶です。お梶(梶女)もまた女流歌人であり、京都祇園社の茶店の女主人だったのです。「祇園梶子」の名で呼ばれ、家集『梶の葉』を残すといいます。伴蒿蹊著『近世畸人伝』に取り上げられている女性ですので、相当有名になっていたと思われます。(資料13)
  のどけしな豊蘆原(とよあしはら)のけさの春風のすがたも水のこころも
  一こゑは思ひなしかとながめやる雲のいづこぞ山ほととぎす
  逢ふことははかなき春の夢路かなやがてうつろふ花のおもかげ

尚、歌舞伎の『六歌仙容彩(すがたのいろどり)』に喜撰法師を出迎える形で祇園の茶汲み女・お梶が登場するそうです。このお梶はたぶん同一人物なのでしょう。(資料14)
 
    
吉野太夫、出雲阿国と続きます。
吉野太夫は、寛永期に京都六条三筋町の名妓として名を馳せた人。後に京の豪商灰屋紹益の妻となります。常照寺には吉野太夫の墓があり、昭和28年(1953)からは「吉野太夫花供養」という行事が行われていて、その一環で源光庵から常照寺本堂までの太夫道中も行われているようです。(資料15)
出雲阿国は阿国歌舞伎で有名です。もとは出雲大社の巫女だったといいます。京都四条河原で「やや子踊」「かぶき踊」で爆発的な人気を得、歌舞伎の創始者とされています。京都南座の西面に石碑が建立されています。四条大橋の東詰には阿国の舞踊像も建立されています。

 
そして、安土桃山時代です。最初に「豊公参朝列」が続きます。
 
    
これは豊臣秀頼が慶長元年(1596)5月に初参内した翌年の9月元服の折に参内した行列を模したと言います。秀頼は檳榔毛唐庇車(びんろうげからひさしぐるま)という種類の牛車に乗って参内したそうです。行列に加わった人々は、「一日晴れ」という特例が適用されて、特別な衣冠姿ができたとか。


 
        
さらに時期が遡り、「織田公上洛列」が続きます。
応仁の乱で京都が衰退期を迎えた後の、永禄11年(1568)年9月、織田信長は足利義昭を奉じて兵をひきい上洛します。

              ここに取り上げた馬上の一武将は、柴田勝家です。
太田牛一著の『信長公記』によると、9月28日に、義昭が清水寺を宿館とすると、信長は9月30日に山崎に陣を移し、三好三人衆の一人・三好長逸を攻撃、その後池田城の池田勝正を攻略した後、京に戻ります。10月14日義昭は六条にある本圀寺に入り、信長は清水寺に入ります。信長が参内したのは10月22日だったそうです。

ここまで見てきてお解りのように、朝廷・天皇との関わりがあることを要素とする視点で行列が内容が選択され編成されています。

この後、室町時代に遡ります。

つづく

参照資料
1)『源氏物語と京都 六條院へでかけよう』 監修・五島邦治 編集・風俗美術館
2) ​時代祭​ :「平安神宮」公式サイト
3) 『古都の歳時記「くらしと年中行事」 京都千年 八』 森谷尅久編 講談社
4) ​綾傘鉾と棒振り囃子​  :「綾傘鉾保存会」
5) ​太田市立高山彦九郎記念館​ ホームページ
6) 『詳説 日本史研究』 五味・高埜・鳥海 共著  山川出版社
7) ​梅田雲浜​ :「コトバンク」
8) ​橋本左内​ :「コトバンク」
9) ウィキペディアの項目参照:近衛忠熈、姉小路公知、三条実万、中山忠能
  コトバンクの項目参照:中山忠能
10) ​和宮降嫁​ :「コトバンク」 
11) ​和宮 親子内親王​ :ウィキペディア
12)​豪商妻の衣装を32年ぶりに新調 22日に京都・時代祭​  :「産経WEST」
13)​祇園梶子​  :「やまとうた」
14)​ 六歌仙容彩​ :「歌舞伎演目案内」
15)  ​吉野太夫花供養​   :「京都観光Navi」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
幕末年表​ by kazusin
2011天神祭能舟.wmv​  :YouTube
敬天愛人​  西郷隆盛のホームページ
維新の三傑・木戸孝允​ :「吉田松陰.com」 
高知県立坂本龍馬記念館​ ホームページ
吉村虎太郎​ :ウィキペディア
橋本左内について​ NAVERまとめ
池玉瀾​  :「コトバンク」
池玉瀾 《渓亭吟詩図》​ :「静岡県立美術館」
絹本著色中村内蔵助像〈尾形光琳筆​)  :「文化遺産オンライン」
中村内蔵助​  :「コトバンク」
六歌仙容彩 喜撰​  :「歌舞伎美人」
伴蒿蹊著『近世畸人伝』​ :「国文学研究資料館」
   10コマ目、第四巻の目次に、祇園梶子の項目があります。
近世畸人伝 登場順索引​  :「日文研データベース」
吉野太夫​  :ウィキペディア
灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商​ :「歴史くらぶ」
綾傘鉾棒振囃子​  :「壬生六斎念仏講中」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2017.10.21 14:44:45
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