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遊心六中記

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2017.12.05
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カテゴリ:探訪 [再録]
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2013年10月26日(土)に豊郷町のボランティアガイド「扇会」の皆さんの御案内で、城跡探訪「湖東に残る城跡と武将を訪ねて」に参加しました。
近江鉄道・豊郷駅集合で3時間半程の探訪コースです。豊郷町の4つの城跡(那須・高野瀬・吉田・赤田)に愛荘町にある目加田を加えた5つの城跡を中心に巡るという企画でした。

探訪行程としては、那須→高野瀬→吉田→目加田→赤田という順番で城跡を巡りました。
その探訪行程での様子も含めて、湖東に残る城跡の状況をまとめたものを、ここに再録してご紹介します。(再録理由は付記にて)

当日「歴史ロマンと近江商人のまち」として「豊郷」を紹介する冒頭に掲載したリーフレットをいただきました。史跡、店舗情報、観光モデルコースなどが載っています。これには詳細な観光案内地図もあり便利です。
現在も豊郷町では同種の情報が作成され提供されていることと思います。

豊郷駅前に集合した後、小グループに分かれてボランティアガイドさんの案内で出発しました。
 
まずは、中山道と並行する「石畑街道」を北東に進みます。「一里塚の鄕石畑」と道沿いの垣根に懸けられた案内板に記されています。

最初に見たのがこの大きな記念碑です。通りが交差する一角に建てられています。
 

                         その先に「称名寺」というお寺

その隣地が「八幡宮」という扁額の懸けられた「八幡神社」です。
 
    神社社殿 

この神社の境内あたりがかつては「那須城」だったのです。なぜ那須なのか? 
実は源平の屋島の合戦で扇の的を射落とした那須与一宗高が、その功績によって、この石畑の地と野洲市の木部の地を領地としたことによるようです。那須与一の次男民部大輔宗信がここに城を築き統治したそうです。
宗信が1239年に京都の石清水八幡宮よりご神体を分祀して、城内に八幡神社を築いたのです。
また、宗信は晩年、1258年に寺を建立(称名寺)し、木部で親鸞聖人の教えを受けて出家(1259)したといいます。以来住職は那須姓(現在26世)を名乗られているそうです。現在は浄土真宗本願寺派のお寺です。
そのため、那須城址が八幡神社と称名寺となっているのです。(資料1)


屋根瓦の文様と蟇股の透かし彫りのデザインに興味を引かれました。
 
八幡神社の境内の北西側が中山道に接していて、その道よりに現在、この石標が建てられています。

境内の中山道沿いの一隅に「標準点」の標識が建てられています。

八幡神社から中山道を南方向に戻って行きます。
 

中山道から少し奥まって広いスペースの先に「伊藤忠兵衛翁碑」という顕彰碑が建立されています。この豊郷は近江商人の筆頭である「伊藤忠・丸紅」の創始者、伊藤忠兵衛の生誕地です。その伊藤忠兵衛の本家が、この顕彰碑のすこし南に所在します。現在は「伊藤忠兵衛記念館」として公開されています。

この記念館の手前で右折して、我々は高野瀬地区に向かいます。
 

途中に立派な地蔵堂と「光照山福等寺」があります。
 

本堂大屋根の棟に寺名の文字瓦がはめ込まれているのが目にとまりました。
鐘楼の鐘には龍が陽刻されています。
後で調べてみると、真宗大谷派のお寺です。もと禅宗の寺が、永禄11年(1568)に改宗して現在に至るようです。(資料2)

「高野瀬溜」という池の傍を通りました。周辺がきれいに整備されています。
 

そして、その傍に、水路を再現しているのでしょうか、モニュメントが作られています。
     
石仏もすこし意匠化して並べられています。こんなのも今風でいいですね。
  そのさきにまた地蔵堂があります。

 
 
                
そして、高野瀬城址の石標がある場所を訪れました。
今は民家、工場と空き地になっています。その一角に過去を偲ぶ石碑があるだけです。

ここは高野瀬家広が築城したところだそうです。家広は近江守護職・佐々木氏(観音寺城)の家来だった愛智氏が分家した一族だとか室町時代の城跡だそうです。戦国の世になって、佐々木氏は愛知川以南の佐々木六角氏と北の京極氏に分かれた後、京極氏は浅井氏に敗れるという変転をみます。高野瀬氏は佐々木六角氏方について、浅井氏と戦う立場を選んだようです。その後高野瀬氏もまた亡びの道を辿ったのです。(資料3)
高野瀬秀隆は柴田勝家に仕え、最後は信長に敗れ自害したといいます(資料1)。一方、
「天正二年(1574)、信長の部将柴田勝家が越前の一向一揆鎮圧のために出陣すると、高野瀬秀隆・隆景父子もその陣に従った。そして、越前安居における戦いで、父子ともに討死した。ここに、高野瀬氏嫡流は断絶となり、鎌倉以来の歴史に幕を降ろした。」という説明を調べていて見つけました(資料4)。課題が残りました。


        ガイドさんが説明に使用された高野瀬城本丸付近図

この地に城を築いた高野瀬氏は、この地の氏神を守護神として敬ったそうです。
その神社が、この城跡の近くにあります。「天稚彦神社」です。

つづく

参照資料
1) 当日入手の資料「湖東に残る城跡と武将を訪ねて」
  豊郷町の観光案内リーフレット(写真掲載のもの)
2) ​教区内寺院紹介​ :「真宗大谷派京都教区」 
  ​福等寺​ :「湖国寺探訪」 
3) ​戦国まっただ中の城​ :「豊郷町」ホームページ 
  ​豊郷町の高野瀬城遺跡が掲載されている資料を知りたい。
        :「レファレンス協同データベース」 
4) ​高野瀬氏​ :「戦国大名探究」地方別武将家一覧 
 
【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
豊郷町​ :ウィキペディア 
那須与一​ :ウィキペディア
那須氏​ :「戦国大名探究」 
間の宿​ :ウィキペディア 
伊藤忠兵衛記念館​ :「伊藤忠商事株式会社」
伊藤忠兵衛記念館​ :「豊郷町」ホームページ
 
   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

​​​​​​​​探訪 [再録] 滋賀 湖東に残る城跡を巡る -2 豊郷町:天稚彦神社、愛知神社、吉田城跡ほか へ
探訪 [再録] 滋賀 湖東に残る城跡を巡る -3 愛荘町:目加田城跡、豊郷町:赤田城跡ほか へ





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Last updated  2017.12.06 11:27:52
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