|
カテゴリ:探訪
御廟橋を渡り、参道を北に歩むと正面には大きな「燈籠堂」が建てられています。(資料1) 最初は高野山二世真然大徳(しんぜんだいとく)により建立され、藤原道長により治安3年(1023)に現在と同規模のお堂になっていたそうです。高野山は幾度も火災に遭遇しているそうです。現在の「燈籠堂」は鉄筋コンクリート造りのお堂になっています。 祈親(きしん)上人の献じた祈親燈、白河上皇の献じた白河燈、黒髪を切って献じられたという貧女の一燈(お照の一燈)、昭和燈をはじめ奉納された燈籠がびっしりと並んでいます。堂内では祈親燈と白河燈が「消えずの火」として燃え続けているそうです。 このお堂に入り、左側から堂内を回り、お堂の北側の回廊に出ます。北方向に、門と塀で囲われた弘法大師御廟所があります。回廊から石段の先にある御廟の一角を参拝する形です。この御廟所が大師信仰のまさに中心聖地です。「現在でも肉身をこの世にとどめ、深い禅定に入られている」という入定信仰のある場所です。 この後、東側に回り込み、再び燈籠堂内に入り、地下に下ります。地下の通路には奉納された燈籠と身代わり大師(ミニチュアの弘法大師像)がびっしりと並べられています。その先に、御廟所の地下空間に相応し、近接する空間の一画に祭壇が設けられています。最奥部は薄暗くてわかりづらいですが、たしか奧に肖像画が掲げられているという説明でした。参拝者の立ち位置のところには、大きな念珠と五鈷杵が置かれています。この仏具に触れることで、弘法大師との縁を結び、弘法大師に一番近づくことができる場所なのです。 地下から階段を上り、燈籠堂を出て参道を戻ります。 参道を往復しているとき、奧の院境内地の参道西側に、小祠があり大勢の人が列を作って並んで居ます。後で調べてみて、その小祠が「弥勒石(みろくいし)」の置かれている小祠でした。格子から手を入れ、みろく石を持ち上げるそうです。心願成就の石という伝説のあるところでした。今回のツアーでは横目で見ながら通り過ぎました。(資料2) 御廟橋に戻り、冒頭に載せた水向地蔵等の前から、御供所のある一画を巡っていきます。 冒頭の右の画像が「護摩堂」の扁額が掲げられたこの建物です。柱には「厄除大師」と記された木札が掛けてあります。 「護摩堂」の南側に、「大黒天」の扁額が掲げられた建物があります。これが「御供所」です。弘法大師に供える食事を日々作るところがここなのでしょう。 北側の入口の前にあるのは地蔵堂です。扁額が懸かる西側は「納経朱印所」の受付になっています。その前を通り過ぎます。 南側には、「御供所」の木札が架けられた立派な門があります。 木鼻の意匠が魅力的です。 その近くに、「頌徳殿」と称される建物があります。現在は茶所・休憩所として利用されている建物です。唐破風の部分だけ撮ってみました。 大正4年(1915)、高野山開創1100年記念事業として、寄付により造営・建立されたとか。(資料1) 一方、参道の反対側で目に止まったのがこの小祠「興山応其(こうざんおうご)上人廟」です。 「織田信長に続いて高野山攻めを行った豊臣秀吉は、応其上人の説得により高野山攻めを取り止め、以後高野山を庇護し興隆につとめたと謂われています。 応其上人は、高野山を焼討ちから救うとともに、その復興に大いに活躍した傑僧であり、興山上人とも木食応其とも呼ばれています。」(説明板転記) 進んで行く参道の東側では、「無縁塚」が目に止まりました。 傍には、六地蔵に見立てて集められた印象を受ける石仏群があります。 往路の参道を進むときに気づかなかったのですが、「豊臣家墓所」の石標が参道脇にたち、石段上の高みに石塔の並びを遠望しました。かなりの広さのある墓所のようです。 「現在名前が確認されている供養碑は、母・なか、弟・豊臣秀長(豊臣大和大納言秀長)の夫妻、姉・とも(豊臣秀次の母)、長男・鶴松、そして、生前に用意された淀殿の逆修碑と推定される六基」(資料3)だそうです。 往路で目にとまった「楽書塚」を遠望する四つ辻の地点まで戻ってきました。復路には異なる道を進む分岐になるところです。 北東側の角地に、「阪神淡路大震災物故者慰霊碑」の石塔が建立されています。合掌。 川をに架かる橋を渡り川沿いの道を中の橋の傍の駐車場に戻ります。 橋を渡った正面(東方向)の幅の広い参道の先には「英霊殿」が見えます。 手前には、手水舎があり、歌碑が建立されています。「土生川正道書」と刻されています。 敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花 この歌はどこかで見聞したことがある! 調べてみると、本居宣長が61歳の自画自賛像に贊として記した歌だということです。宣長が画像として自分の姿を描いた事で、お前の姿形はわかったが、心は如何?と尋ねられたとしたらという想定で、己の心をこのように歌に詠んだというのです。 「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」と。(資料4) 駐車場に戻ると、バスで移動です。大門と中の橋との中間地点あたりまで戻り、「金剛三昧院」に行きます。高野山のメインストリートに並ぶ宿坊寺院とは少し離れた場所にあります。高野山から熊野へ至る古道「小辺路(こへじ)」の入口「小田原谷」の最南部に位置しています。高野山大学の南東方向になります。 その立地から、高野山内で落雷によりたびたび火災が発生し大火となったときにも類焼を免れて現在に至っているお寺です。 まずはここで、昼食休憩し、その後集合時刻までは金剛三昧院の自由拝観です。このツアーは昼食付でした。勿論、精進料理の昼食です。金剛三昧院は宿坊寺院の一つです。入手パンフレットには、高野山に宿坊寺院として52宿坊が一覧になっています。 金剛三昧院は、門前の前の通路の反対側に宿坊の建物があります。かなりの人数の宿泊が可能な感じでした。右の画像は今回の昼食です。 金剛三昧院の山門。楼門形式です。 「毘張尊(びちょうそん)」と記された大きな扁額が掲げてあります。 また、正面から見て右に「第十七番札所結願所 西国愛染明王霊場」の標札が掲げてあります。 門のところで、高野山の「こうやくん」が迎えてくれていました。門前をバスで出発するときは、送ってくれることになります。 こちらは楼門を境内側から撮った景色です。 高野山金剛三昧院は、この説明板に記されていますが、建暦元年(1211)に夫の源頼朝の菩提を弔う為に後に尼将軍とも称された妻の北条政子が創建したそうです。北条政子は頼朝の死後、入道して鎌倉二位禅定如実となります。鎌倉幕府の実質的な権限は維持しましたので尼将軍とも言われた人です。初めは禅定院と称していたそうですが、承久元年(1219)、三代将軍実朝が逝去し、その遺骨を納めたときに、金剛三昧院と改称したといいます。 当初、禅定院と称されたように、落慶法会は臨済宗開祖・栄西禅師を開山第一世として請じて行われたとか。その後、1234年に、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)上人が初代の長老に任じられたときに、密教・禅・律の三宗兼学の道場となり、さらに後に浄土教も兼学する道場となったそうです。高野山では特殊な位置づけになったことでしょう。第12代実融上人までは、禅宗系の住持が長老を務めたとそうです。1227年に由良町に臨済宗妙心寺派の興国寺が創建された時点で、禅宗の機能が移されることになり、それ以降は高野山真言宗の寺院となったといいます。(資料5,駒札) 楼門を入ると、右側に本坊・庫裡があります。出発時間までのゆとりがなかったので、建物内の拝見の可否を確かめることのせず境内の探訪にのみに絞りこみました。 楼門から正面に見えるこの建物が「本堂」です。 本堂に近づいていきますと、正面右前方に十三重石塔が建てられていて庭が見えます。本堂と本坊からの回廊の両方に面した庭となっています。 さらに本堂に近づき、建物の部分を撮ってみました。 お堂の正面の扉の上の長押には、「第八十三番本尊愛染明王」「第八十四番本尊愛染明王」と並記され、その下に平かなでそれぞれ和歌が記されている木札が架けてあります。愛染明王を詠題として詠まれた歌集があるのでしょうか・・・・・ちょっと関心があります。私には書体を判読できない箇所があり、残念! 札所としての御詠歌なら、第17番霊場としての歌が掲げられるはずですので。 この本堂の本尊が愛染明王なのです。愛染明王は「人間の愛欲を浄化して菩提心に変える明王で、人の和合(敬愛)や争いを鎮めるための密教修法の本尊として、平安貴族の間で深く信仰されました」(資料6)。現在まで脈々と信仰されてきているのです。「愛染明王は、人の欲望を力強く生きていくためのエネルギーに変え、愛情や情欲などを悟りの心に変えるという仏様」(資料5)とホームページでは説明されています。 一つだけ撮ったのが木札の傍のこの蟇股です。おもしろい図柄・・・その意匠に関心が湧きます。何かの故事を踏まえている印象を受けました。これまた、知識が無くて残念です。 木鼻に彫り込まれた獅子像の造形とともに、眼の彩色が印象に残ります。 本堂正面の左斜め前方に建物が見えます。その前に、「町石」と同じ形式の五輪塔の形をした弘法大師大遠忌の記念奉納碑が建立されています。 校倉造の「経蔵」(重文)です。「多宝塔と同時期の建立とされ、鎌倉時代に作られた例が少ない貴重な経蔵とされています。また、当院中心に刊行された経典高野版の版木、金剛三昧院版木(国指定重要文化財、約500枚)が所蔵されてきました」(説明板より)。建立は貞応2年(1223)頃だそうです。(資料5) 経蔵の後方に、山道があり一段高い山腹に社が見えますので、登ってみました。 銀杏の黄色い落葉が山道を覆っています。ここちよい風情です。 金剛三昧院の鎮守として祀られている「四所明神社」の本殿です。 四所というのは高野山の守り神四柱をさすのです。 一宮 丹生明神 (胎蔵界の大日如来) 二宮 高野明神 (金剛界の大日如来) 三宮 気比明神 (千手観音) 四宮 丹生御息 (文珠菩薩) 「本宮内の画は高野山の奧の院と麓の天野社の神仏を集合した垂迹(すいじゃく・仏様が仮の姿をして現れること)思想のもとに描かれて」(資料5)いることから、括弧内が各明神と対応しているのです。 「一間春日造で、正面の方位板裏面には『天文廿一年四月二日より八月造了。同廿七日遷宮申了、良識七十一』との墨書があり、室町時代にあたる西暦1552年(天文21年)に建立されたことがわかります。」(説明板より) 狛犬の表情が楽しい感じです。怖そうでいてなんだか人なつっこそうな笑顔にも見えます。 本殿の隣に、「天満大自在天神社」(重文)の小社があります。祭神は菅原道真です。四所神社と同時期の建立といわれているそうです。(資料5) 経蔵を多宝塔の側から撮った景色ですが、注連縄の張られた御神木が屹立しています。 樹齢800年を越す6本立ちの高野杉(六本杉)です。これは「天狗杉」と称されており「毘張杉」とも呼ばれます。 この杉の木の上に現れた天狗の名前が毘張なのだそうです。金剛三昧院の守り神。毘張尊師と称されていて、大火消除の神様でもあるとか。 上掲の四所神社本殿からさらに山道を登っていた先に、「毘張尊師社」が祀られているということを調べていて知りました。(資料5,7) 最後に、楼門を入って、右側に歩めばこの「多宝塔」(国宝)があります。 「この多宝塔は、源頼朝、実朝の御霊を供養するため、西暦1223年(貞応2年)頼朝の妻北条政子により建立されました。現在、高野山に現存する最古の木造建築物で、鎌倉様式を残す数少ない建物のひとつです。」(説明板より) 昭和27年(1952)4月国宝指定。平成16年(2004)世界文化遺産登録。 階段のあるところ 背面 多宝塔の細部を視点を変えて撮ってみました。多宝塔には特に木組みの構造美を感じます。 (資料8) このあと「壇上伽藍」にバスで移動しました。 つづく 参照資料 1) 名所一覧 :「高野山真言宗 総本山金剛峯寺」 2) 高野山の伝説スポット :「高野山をめぐる」 3) 高野山奥の院にある戦国武将供養碑特集~有名武将の墓所総覧に挑む :「日本の国内ガイド300」 4) 「敷島の歌」 :「本居宣長記念館」 5) 金剛三昧院 ホームページ 6) 『仏像の見方 ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p84 7) 金剛三昧院 :「石田道場」 金剛三昧院 :「聖山高野山」(高野山宿坊協会) 8) 「聖山 高野山」 高野山宿坊協会・高野山参詣講 発行 バスツアー当日に配付されたパンフレット(A4サイズ) 補遺 「敵将」信長の墓、なぜ一等地に 子孫が移す? 高野山 2006/09/01:「asahi.com」 高野山 奥之院 かなり完璧ガイド ホームページ 金剛三昧院 :「じゃらん」 本坊や本堂内部の画像も掲載されています。拝見しなかった内部の画像は一見です。 北条政子 :ウィキペディア 源頼朝の妻北条政子 :「鎌倉手帳(寺社散策)」 丹生都比売神社 :「かつらぎ町観光協会」 丹生都比賣神社 :「和歌山県神社庁」 高天原の地 天原の里 :「かつらぎ町観光協会」 興国寺 :「ぐるわか」 興国寺 :「わかやま観光情報」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) 探訪 世界遺産・高野山ツアー -1 紀ノ川・大門・中門・中の橋口からの参道 へ 探訪 世界遺産・高野山ツアー -2 参道に櫛比する墓碑・供養塔を眺めて へ 探訪 世界遺産・高野山ツアー -4 壇上伽藍を巡る へ 探訪 世界遺産・高野山ツアー -5 金剛峯寺細見 へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.12.11 09:05:36
コメント(0) | コメントを書く |