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遊心六中記

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2017.12.16
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カテゴリ:探訪 [再録]
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上野城跡から県道135号線沿いにJR油日駅の方向にまず戻ります。その時あの赤鳥居の前を通過。この大きな鳥居は、油日神社、油日大明神の鳥居だったのです。


そして、杣川に架かる橋を渡り、県道51号線を歩き、
  和田地区に入って行きます。
県道51号線は和田川に沿った道路であり、この地域が和田谷です。

       
まず、和田城館群のあったこの地域の上空から撮った写真をご紹介します。

これは探訪を終えて、和田地区から毛枚地区に行く時、探訪に出かけてきた大勢の集団だとわかったことから、通りかかったたばこ屋さんでお店の方に偶然にもいただいたリーフレットの表紙です。
その昔、この和田谷には7つの城館が築かれていたそうです。それぞれの城館が連携してこの谷全体を守備していたと考えられるのです。中世にこの地を支配した土豪が和田氏です。和田氏に関連する城館と推定されています。和田同名中惣がこの和田谷地域を運営・管理していたのです。

この表紙の下辺が南で、谷の奥側です。一番奥に和田城跡があり、この城館が縄張の規模や構造などからこの地域の中心的な城だったと考えられています。
そして、この北方の谷の入口の東側に「殿山城跡」があり、その南に今回訪れた「公方屋敷跡」が位置しているのです。(資料1)
和田城に脚を延ばしたかったのですが、それは又の機会となりました。位置関係がわかっただけで今回は満足とすることに・・・・。
 
バス停の傍の柱に「公方屋敷跡」の表示がでています。

矢印の方向に向かっていしばらく進んで行くと、原っぱになったところに大きな木が1本立ち周囲が生け垣で囲われているのが見えます。 
  
近づいて行くと、公方屋敷跡の説明板が建てられていました。市指定史跡になっています。
          
室町時代末期に13代足利将軍義輝が三好・松永らにより殺害されます(永禄8年・1565年)。この時、奈良・興福寺の一乗院門主だった覚慶は将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良を脱出し、将軍御供衆だった和田惟政の案内で、和田城主だった和田景盛(六角高頼の孫)を頼り、この和田谷に亡命します。三好・松永らからの危難を回避するためです。覚慶は義輝の実弟でした。将軍は公方と呼ばれていたので、義昭が一時的に住んだここの城館が「公方屋敷」と称されるようになったのだとか。(資料1,2)

                             公方屋敷跡縄張図(資料3)

ここは西に開け、背後に山を背負う谷部であり、東西75m、南北80mの平坦地になっていて、和田氏の居所と考えられている所です。そこに覚慶が仮住まいした訳です。その後、まず和田氏領の野洲矢島に移ります。そこが「矢島御所」と呼ばれます。この地で覚慶は還俗して義秋(後に義昭と改称、以下義昭と記す)と名乗り、足利将軍家を継承する活動を始めていくのです。その場所には現在矢島町の自治会館が建てられており、その傍に名残の土塁がわずかに残る程度だとか。(資料1,2,4)

最後に義昭を助けたのが織田信長です。信長の力を頼ってきた義昭を立てて信長は入京し、義昭を将軍職につけます。それは義昭にとっては、信長との確執の始まりでもあるわけです。勿論、信長からみれば義昭など眼中になかったことでしょうが。

この平坦地の一隅に、五輪塔やその残滓、石仏などが少し集合していました。どういう由縁があるのかは解りませんが・・・・・。

公方屋敷跡を出て、和田川沿いに北西方向に向かいます。

向かう先は「毛枚(もびら)地区」です。ここに最後の探訪地「長岡城跡」があるのです。


現在この地は民家の所有地になっています。建物の軒下に説明板が掲げられています。
所有者の方が快く応対してくださいました。ボランティアの皆さんのお陰です。 

                                山岡城跡縄張図です。(資料3)
 

山岡城は小高い山に縄張がなされ、山頂に方形の郭が築かれています。


これがその山頂を登り口側から見たところです。

 
                    
 
 
 
 

土塁で方形郭の周囲が囲われているのがよく解ります。


山頂から眼下に見えるのは酒蔵。帰りに正面を見ると、望月酒造株式会社さんです。
 
          

山頂の郭と下を繋ぐ坂道は曲折しています。

 
山頂から見えた酒蔵に続く建物。ちょっと不思議な軒屋根の勾配です。
    
     鬼板と装飾瓦がなかなかいいですね。

山岡城の北東には「毛枚北城」、南東には「獅子ヶ谷城」があり、この山岡城が中心となって密接に関わっていたと想像できるそうです山岡景隆・景友が城主であったと伝わり、この二人は兄弟で、織田信長に仕えたのだとか。
山岡氏は『新訂寛政重修諸家譜』によれば、鎌倉期の貞景の代に三河より大原村に移り、大原氏を称したとか。これが近江伴氏四党のうちの大原一族になるそうです。
子孫の景廣が毛枚村に居住して毛枚氏を称したと言います。景通の代に大鳥居氏を名乗り、景通の曾孫資広の代に勢田の山田岡に来て城を築き、以後山岡氏を称したのだとか。近江勢田城を本拠として六角氏に仕え、以後栗太郡を拠点としたそうです。(資料3,5)

大原村はJR甲賀駅の東方一帯にあたるそうです。甲賀駅の南東にあり、午前中に2番目に訪れた大原城が大原氏ですから、この山岡城跡もかつては大原同名中惣の中に含まれていたのでしょうか・・・・。甲賀五十三家には、毛枚氏、大鳥居氏、山岡氏という家名は存在しませんので。(資料6)

いずれにしても、この山岡城跡の探訪を最後に、今回の探訪は終了しました。

数多く存在する甲賀の城跡、未訪の城をいずれ探訪してみたい次第です。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 「甲賀の城郭Ⅰ 和田城館群」 編集 甲賀市教育委員会事務局歴史文化財課
    里山・遺跡のコ・ラ・ボ(木・愛)事業 作成
2) ​足利義昭入洛運動​ :「佐々木哲学校」
3) 「『かくれ里』ササユリ・トキソウの魅力と甲賀武士ゆかりの城跡を巡る」
   油日駅を守る会 作成
4) ​近江 矢島御所​ :「近江の城郭」
5) ​山岡氏​  :「戦国大名探究」
6) ​甲賀郡中惣と甲賀五十三家​  :「戦国浪漫」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
いにしえ物語2 高槻城主和田惟政 一​ :「高槻市」
  このサイトに、和田惟政についてシリーズで取り上げられています。
大原村(滋賀県甲賀郡)​  :ウィキペディア
足利義昭​  :ウィキペディア
和田惟政​  :ウィキペディア
和田惟政​  :「コトバンク」
43.戦国時代の高槻城主 和田惟政​ インターネット歴史館 :「高槻市」
山岡景隆​  :ウィキペディア
油日神社​ 公式ホームページ


  ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

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探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -1 JR甲賀駅、ササユリ観覧、梅垣城跡 へ
探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -2 甲賀郡中惣とは、大原城跡 へ
探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -3 長福寺、極楽寺、上野城跡 へ
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Last updated  2017.12.16 15:57:35
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