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遊心六中記

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2017.12.23
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カテゴリ:探訪
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12月4日(月)に薬師寺での講座受講の前に、早めに出かけて唐招提寺を何十年ぶりにゆっくりと拝見しました。冒頭の画像は唐招提寺の「南大門」です。唐招提寺の探訪結果をまとめて、ご紹介します。

近鉄西ノ京駅を降りると、すぐ近くに薬師寺があります。薬師寺境内の西側築地塀沿いの道を真っ直ぐに北に向かいます。

その道の北端に唐招提寺のこの築地塀が見え、唐招提寺の南面を通る東西方向の道路とT字路をなしています。上掲案内板はこのT字路の一隅に設けられたものです。赤地に白抜きの「現在地」の位置です。この地図は南北が逆転し、地図の上辺が南で描かれています。

 

道路を右折し、南大門に向かいます。築地塀の傍に、「史跡 唐招提寺旧境内」の石標が立っています。

南大門に近い側から南側築地塀を眺めた景色です。

              この案内板が設けてあります。旧境内の概略が説明されています。

鑑真大和上は聖武天皇の願いに応え、五度の失敗を重ねても屈することなく戒律を伝えるために来日されました。『続日本紀』には、天平勝宝6年(754)正月16日、「この日、遣唐副使・従四位上の大伴宿禰古麻呂が帰国した。唐僧の鑑真と法進ら八人が古麻呂に随って来朝した」(資料1)と記されています。
749年の秋7月2日に聖武天皇は皇太子(阿倍内親王)に譲位し、孝謙天皇の時代になっています。聖武太上天皇として鑑真を迎えたことになります。754年4月に、鑑真和上は東大寺大仏殿前で聖武上皇、孝謙天皇、光明皇太后ら440人に戒を授けたといいます(資料2)。聖武上皇は念願が叶った後の756年に没します。
『続日本紀』754年の秋7月13日の条には、「この日、僧百人、尼七人を得度した」と記されています。この授戒は鑑真和上が行われたのでしょう。4月の授戒のことは記載はありません。(資料1)
また、同書巻二十一「廃帝 淳仁天皇」の天平宝字2年(758)8月1日条には、詔の中で、鑑真について、「大和上と号して恭しく供養し、政治の煩雑さで老軀を労することのないようにせよ。よろしく僧綱の任務を解くべきである。また諸寺の僧尼をあつめ、戒律を学ぼうと望む者は、みな大和上について学習させるようにせよ」と述べているのです。(資料1)
そして、天平宝字3年(759)に新田部親王旧宅の地を賜った鑑真が東大寺を去り、開創した寺がこの「唐招提寺」ということになります。鑑真和上の私寺としてスタートしたのです。鑑真大和上はここに律院(戒律を学ぶ道場)を創立されます。鑑真大和上は「唐律招提寺」と名づけられたそうです。つまり「唐招提寺」です。(資料2,3)
南都六宗の一つ、律宗の総本山という位置づけになります
 

南大門の東を眺めると、築地塀の先に「高麗門」があり、その先は板塀と生垣に代わり、寺務所の建物が見えます。唐招提寺の境内地東側には「秋篠川」が南北に流れています。   

まずは南大門を眺めてみます。
 
    
 
        


壁は漆喰壁で塗り込まれていますが、屋根裏が見える形ですので、柱と梁など門の木組みの構造が良く分かります。切妻造五間三戸の門(建物)です。
この南大門は昭和35年(1960)の鑑真和上1200年忌に天平様式で再建されたものです。(資料3)


三扉の中央です。「唐招提寺」の扁額(複製)が掲げてあります。実物は講堂内に収蔵されています。

向かって右側の扉は、現在拝観者の出口となっています。左側の扉の手前の受付所を経由して左の扉から境内に入ります。

 

左扉を通り過ぎ、中央扉の内側あたりから眺めると、正面に「金堂」が配置されています。



 
        
左扉を通り過ぎ真っ直ぐに歩き出すと、「世界文化遺産記念碑」が目に止まります。

その傍に「境内案合図」が掲示されています。

この境内案内図でイメージできると思いますが、境内地の大半が樹林帯になっていて、所謂庭園と呼べる境内地は少ないお寺です。
 
                
記念碑の立つ区域、その西側一帯がまず林です。ところどころの樹木が紅葉していました。


記念碑前から、東を眺めると生垣が境となり、林の区域です。東への通路は寺務所の方に至ります。

                   紅葉する木と金堂のコラボレーション 良い眺め!!
観光客が比較的少なくて、私にはラッキーでした。静かな雰囲気の境内を散策できましたから。



この金堂は天平時代の建物です。「建立縁起」によれば、鑑真和上に従って渡来した弟子の一人、如宝が主となって建立を推進したそうです。

    南西側から眺めた金堂
 

これらの部分撮りと併せてご覧いただくと、中央5間の両開きの板扉正面両端と側面には連子窓が設えられているのがお解りいただけます。正面である南の1間は吹放ちの円柱列となっています。
現在は各扉の上部に幕が提げられていますので、基壇の上に上がり扉の前から金網越しに仏像を拝見することになります。幕がなければ、扉が開けてあると金堂前の庭から堂内の本尊を参拝できる形です。
8本の円柱列の間隔は中央部がやや広めです。そして円柱の中央部がふくらみを帯びた形になっています。 

当日購入した写真集(小冊子)にはこの国宝金堂について、
「いま、いささか残念なのは、この堂の屋根が重たげにみえることで、これは元禄6~7年(1693-4)に棟の高さをかえて、寄棟の外形はそのままであるが、屋根がずっと高く、厚いものになったので、天平時代の軽やかな寄棟の感じがかわってしまった。だから天平の金堂は、いまよりはるかにうつくしい外形を示していたわけである。またいまの円柱にみる胴張りに似た形も、近世の改変によるものである。こうした形の変化はあるが、これほど形の美しい建物はまれである。」と、説明を加えています。(資料2)

大正8年(1919)5月に岩波書店から出版された和辻哲郎著『古寺巡礼』は、ベストセラーになりました。手許にあるのは1965年の第37刷です。和辻がこの金堂が近世に一部改変されたという事実を知っていたのかどうかは知りません。現存するこの建物自体の美しさを第14章で絶賛しています。たとえば、次の様な描写をしています。

*軒端の線が両端に至ってかすかに上へ湾曲しているあの曲がり工合一つにも、屋根の重さと柱の力との葵だの安定した釣合を表現する有力な契機がひそんでいる、天平以後のどの時代にも、これだけ微妙な曲線は造れなかった。そこに働いているのは優れた芸術家の直感であって、手軽に模倣を許すような型にはまった工匠の技術ではない。 p148
*この屋根とそれを下から受ける柱や軒廻りの組物との関係には、数へきれないほど多くの繊細な注意が払われている。柱の太さと堂の大きさとの釣合、軒の長さと柱の力との調和、それらはもうこれ以上に寸分も動かせない。大きい屋根が、四隅へ降るに従つて、面積と重量とを増して行く感じを、下からうけとめ、支へ上げるためには、立ち並んだ八本の柱を、中央に於いて最も広く、左右に至るに従つて漸次相近接して立てている。その間隔の次第に狭まつて行く割合が、極めて的確に屋根の重量の増加の感じと相応じているのである。p149
*上へそり反つた屋根の下に強力な柱があれば、その屋根の湾曲が柱の支力の表現になるのである。 p150

堂内は撮影禁止です。
(唐招提寺ホームページの「伽藍と名宝」の「金堂」のページに本尊諸仏の画像が掲載されています。ご覧ください)

本尊は盧舎那仏坐像。奈良時代(8世紀)の脱活乾漆・漆箔の像で3mを越える大きさです。諸仏が連座する千仏光背は壮大な仏国土を表象するようで荘厳性が高まります。光背の高さは5.15mにも及ぶとか。
向かって左に奈良時代(8世紀)の千手観音立像、右に平安時代(9世紀)の薬師如来立像が脇侍です。千手観音像は、まさに本来1,000本の手が作られていたのでしょう。大脇手・小脇手併せて953本の腕が現存しているそうです。この数多い小脇手が光背のように感じられ自然に受け止められます。この二体は木心乾漆・漆箔の仏像だそうです。
本来は本尊盧舎那仏の左右に安置されていたという梵天・帝釈天像も堂内に安置されています。こちらも奈良時代(8世紀)に造立された木造・乾漆併用の仏像です。
金堂の須弥壇四隅に、四天王立像が仏教世界の護法神として安置されています。こちらも奈良時代(8世紀)の制作で、木造・乾漆併用の仏像です。甲冑は比較的装飾の少ないものです。時代が下るにつれ、甲冑など葬具の装飾性が増していくようです。四天王像はいずれも2m弱の像高です。
梵天・帝釈天と四天王の各像は彩色されていた痕跡が部分的に拝見できます。
本尊をはじめこれら諸像がすべて国宝に指定されていて、金堂という本来の堂内に安置されているのは荘厳かつ壮観ですらあります。木像仏が一般化する前の一時期、天平文化のもとで華開いた仏像制作技法による諸仏と静かに対面できるひとときはまさに心静まる機会です。訪れた時間帯が良かったのでしょうか、私が金堂の前で見仏していたときは、わずか数名を見かけただけでした。正面の金網ごしというのが少し残念でしたが・・・・保安上は仕方が無いのかも。

     
金堂の前方には、大きな石灯籠が一基建てられています。
基壇と笠・宝珠の色合いと火袋・中台・竿の中間部分の色合いが異なるのは、補修されたからでしょうか。火袋には蓮台の上に種字が載る図がレリーフされています。現地探訪中は、火袋の戸を細竹を使って押さえているのに目が止まり、レリーフの方は後日画像を見ていて気づいた次第です。
正面参道の中央に石灯籠が置かれているのは、本尊の正面に神聖な火を燈火として捧げるということでしょう。併せて正面の前で一旦とどまり、迂回するようにという意味合いでもあるのでしょうか。そういえば、東大寺大仏殿や平等院鳳凰堂の正面も燈籠が一つ建てられています。
石灯籠の配置の意味という課題が残りました。





金堂の南西方向、境内案内図より北側にこの歌碑が建立されています。

傍にこの駒札が立っています。末尾の七句は「ものをこそおもへ」です。会津八一がこの金堂を詠んだ歌です。歌集『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』に収録されています。(資料4)
                

この歌碑の少し西側に、林の中へと向かう散策路があります。その入口付近で、
 この石碑が目にとまりました。

近づいてみると、「松瀬青々句碑」の駒札が立っています。
左下に小さく「昭和戊辰(三年)三月 青々記」として短文が記されています。
「来遊諸子のすすめ黙しがたく旧句を題す。当寺此寺荒廃して風情余りありしが稲田は其後寺に帰して今松林と成れり」と。この札に気を取られて、句碑を改めて見ていなかったのが、実は失敗でした。この景色は句碑の裏面だったのです。林の中の道を北に進んでくると、句が目に入るという建て方のようでした。金堂側から眺めただけでの失敗です。訪れられたら、ご注意くださいね。
いつか再訪した折にでも句碑の正面を眺めてみたいと思っています。


読みづらいでしょうが、一応裏面の銘文のところを拡大しておきます。

前掲の和辻は「堂の正面をぶらぶらと歩きながら、わたくしは幸福な小時を過ごした。大きい松の林がこの堂を取り巻いていて、何とも云へず親しい情緒を起こさせる」(p150)と続きのところに記しているので、1919年には稲田の広がりではなく、既に松林ができていたのでしょう。松瀬は1869年に生まれ1937年に亡くなった俳人ですので、明治の頃は南大門を入ったあたりに稲田が見られたのでしょうね。いくつかの手がかりから、唐招提寺の変遷風景が垣間見えてきます。(資料5)



つづく

参照資料
1) 『続日本紀(中)』 全現代語訳 宇治谷 孟  講談社学術文庫 p121,p202
2) 『天平の甍 唐招提寺』 唐招提寺  当日お寺で購入した小型本(写真集)
3) ​唐招提寺​ ホームページ   
      ​伽藍と名宝​(目次のページ) 
4) ​詩歌紹介 おほてらの​  :「関西吟詩文化協会」
5) ​松瀬青々​  :ウィキペディア
  ​松瀬青々​  :「コトバンク」

補遺
鑑真​  :ウィキペディア
鑑真​  :「コトバンク」
鑑真~仏教の発展~​ :「NHK for School」  
寺院建築-天平時代​ :「古都奈良の名刹寺院などの紹介、仏教文化財の解説など」
石灯篭の置き方・向き-月は東に日は西にの嘘​ :「役立つ? お庭ブログ・北山造園」
File103 石灯籠​ 美の壺 :「NHK」
唐招提寺の碑を巡った日​ :<「作家と不思議なカレー」の話>   
   このブログ記事に、句碑の表の画像が載っているのを見つけました。

          ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
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スポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -2 戒壇 へ
スポット探訪 奈良 唐招提寺細見 -3 醍醐井戸・本坊門前・中興堂門前ほか
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スポット探訪 奈良 薬師寺から唐招提寺への道すがらに へ

スポット探訪 奈良 薬師寺細見 -1 玄奘三蔵院伽藍と北側境内域 へ
   3回のシリーズで探訪記をまとめています。





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Last updated  2018.01.03 23:47:12
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