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遊心六中記

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2017.12.24
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カテゴリ:探訪 [再録]
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奈良・天理で探訪といえば「山の辺の道」を歩くというのがまず頭に浮かびます。
集合場所だったJR長柄(ながら)駅前にある案内板もJR桜井線の線路より東側に位置する「山の辺の道」中心の案内になっています。そのため、今回の探訪の役にはたちません。

2014年11月に、REC講座「関西史跡見学教室24 ~天理・中ツ道」を受講しました。飛鳥時代に奈良盆地の南北方向に敷設された主要な3つの交通路があります。その一つ、中ツ道を軸にした周辺史跡探訪が目的でした。このときにまとめたものを再録しご紹介します。 (再録理由は付記にて)

飛鳥時代に、南北の交通路として上ツ道、中ツ道、下ツ道が真っ直ぐの道として政策的に作られていたということは、歴史として学んだもののそれがどういうスケールのものだったかは知りませんでした。この講座はそれを体験する良い機会になりました。

中ツ道は、道幅23mで両側に2m幅の側溝が付くというもので、南部は藤原京東四坊大路、北は平城京の東京極となり、この間を結ぶ一直線の幹線道路だったのです。中ツ道の東方2.1kmに上ツ道、西方2.1kmに下ツ道が並行して延びていたといいます。その広がりをご想像ください。これらの道は壬申の乱(672年)までには敷設されていた官道でした。

「壬申の乱では、大海人皇子軍の大伴吹負が守屋(旧磯城郡川東村守屋)で、中ッ道を攻め下った大友皇子軍と闘っています。」和銅3年(710)平城京への遷都の折に、元明天皇は輿で移動し、長屋の地で休憩したそうです。そのため中ツ道を北上したと考えられています。また寬弘4年(1007)、藤原道長が吉野参詣をしたときにもこの中ツ道を利用したのです。(資料1,2)
藤原道長は『御堂関白記』の寬弘4年8月2日、乙巳の条に金峯山(きんぶせん)詣に出立したと記し、4日、丁酉の条に「井外堂(いどどう)に宿した。雨が、日を尽くして降った。御燈明料と諷誦のために信濃布十端を納めた」と記しています。(資料3)
井外堂は井戸堂のこと。現在の西井戸堂町に山辺御縣神社があり、この神社は中ツ道の傍にあるのです。この神社には当時、神宮寺である妙観寺があったので、道長はそこに泊まったと推定されているそうです。

中ツ道について、グーグルで見つけたのがこの地図です:ここをクリックしてみてください。

JR長柄駅から、まずは西の方向に進みます。地図では兵庫町、長柄町、西長柄町と続きます。今回ご紹介する行程は、​こちらの地図(Mapion)をご覧ください​。

長柄は、「室町時代後半の環濠集落であり、城郭と考えられる。中世には興福寺領の長柄荘があり、室町時代には大乗院方の十市氏配下に長柄氏がいた。」(資料1)そうです。
また、<ながら>という言葉について、「アイヌ語では、川から丘地へゆく途中の土地、または、よく見える眺望のよい所をさすようです。」(資料4)地名としてアイヌ語が関わっているとしたら、興味深いですね。

序でに、長柄町の手前の兵庫町ですが、兵庫というのは「大和(おおやまと)神社の兵庫があった所」だとか。「古代は大社や豪族たちは弓矢槍刀などの武器を納める兵庫を持っていました。」(資料4)

 
長福寺から少し西に行った辺りの、現在の南北と東西の道路部分がかつては濠であり、「長柄環濠跡」になるそうです。天理市には現在も、たとえば竹之内・萱生(かよう)には環濠がそのまま残っていますが、長柄やさらにここから西に位置する備前(備前町)は環濠が埋め立てられていて、環濠跡となっています。

「備前環濠跡」も室町時代後半の環濠集落と考えられているようですが、近世のものという可能性もあるとか。「備前は興福寺領長柄荘に含まれ、室町時代には十市氏配下に備前氏が属していた」(資料1)とのことです。備前は荘園領主の備前氏からきた名称という考えの他に、備前国からきた名であろうという見方もあるようです。(資料5)

 長柄の道路沿いの町家の軒に「うだち」を見かけました

長柄の集落を進むと、「大字長柄中央標」の石標が鉄塔の傍に立っています。里程表作成の元標として用いられた基準点のようです。
 
更に西進して東方向を振り返ると(左)、赤い火の見櫓の鉄塔が見えます。この傍に上掲の中央標があったのです。また、右写真の南への道が濠跡部分になるそうです。
 
 

長柄環濠跡の道路を西進すると、長柄運動公園・総合体育館が道路の北側にあり、その先の交差点あたりが中ツ道の敷設されていた位置です。中ツ道跡は、ほぼ現在も南北の幹線鋪装道路としてその一部が利用されています。交差点の北東角に小さな石仏をはさむ形で道路標識が立っています。
上段の画像は長柄から西に歩んできて眺めた石仏と道標。中段の画像はかつて中ツ道が敷設された場所、下段の写真が道路を横断して中ツ道跡の西側から眺めた石仏と道標です。

ここから中ツ道跡を北上します。交差点から北方向に見える杜が「天皇神社」のある所で備前町にあります。
 
神社の傍に、左の頌徳碑があり、神社の手前には小さな石の反り橋が形として架けられています。頼秀師とは、説明板によれば周防国上野寺の住侶頼秀という人で、諸国巡歴中に、この天皇神社の社殿の荒廃を見て、自らが応永3年(1396)に願主となり、現在の本殿を造立したそうです。
 

その先に石の鳥居が立っています。鳥居の傍に説明板があります
 

鳥居をくぐると、拝殿の先に本殿があり、境内の右側に「塞神神社」の小祠があります。
 
    

本殿 一間社春日造で檜皮葺本殿棟札に文永9年(1272)創祀とあるそうです。
説明板に記載されていますが、この「天皇神社」は旧備前庄の鎮守で、「天皇」は「牛頭天王」を意味し、素戔嗚尊のことなのです。

「中央に大梵天王と婆梨采女、左右に牛頭天王と天満天神を祀るとする」(資料1)といいます。
 
                     
阿吽形の狛犬の相貌がおもしろい。よくあるのとはちょっと違う表情です。
 
        
 

蟇股や木鼻の時代的特色が見られ、扉の脇板の彫刻も独特なものだとか。

 

社殿の縁を支える腰組も独特なものだと言います。社殿の周囲の石造の玉垣は、正面の部分とその他の側面の作りが異なり、これも興味深いところです。この形式のものを見るのは初めてでした。正面の左端角には玉垣が明治41年10月に改築されたという碑がありました。

 

社殿に向かって左隣りに「菅原神社」の小祠が祀られています。
  

この後、布留川南流にかかる橋を渡って、中ツ道跡付近を北上します。
 
集落に入ると地蔵尊が出迎えてくれます。

集落に残された空地が中ツ道に当たるところでした。

さらに、今は田畑として利用されている中ツ道跡の傍を北上します。
 
 
途中、大樹の下に、宝篋印塔や石仏が祀られています。付近に説明は何もありません。


この景色の右側は堤防で、布留川の一部がちょうど南北方向に流れているところです。南の方を眺めていますので、川の東側にあるこの田畑の部分とその東の道路幅を併せて、中ツ道が敷設されていた道幅(側溝幅を含め)になるそうです。
飛鳥時代に敷設された官道のスケールの雄大さが感じ取れます。交通路の必要性を超えて官道の道幅の広さは権威の象徴でもあったのでしょうね。

  布留川

布留川の源流は? 布留川は万葉の時代に歌に詠み込まれているのだろうか?
ブログ記事を掲載してから、こんな関心が湧きました。
調べてみて理解できたことを再録にあたりここにまとめてご紹介します。

布留川は、かつては古川、振川とも記されたようです。そして川の源は竜王山(りゅうおうざん)でした。地図を見ると、竜王山の山頂はJR長柄駅の南東方向です。竜王山の北を源流とする川は、現在の天理ダムに注ぎ込み、そこから石上(いそのかみ)神宮の北側を流れ、さらに西から南西方向に流れ、大和川に合流するのです。石上神宮のある地が「布留」であり、現在の布留町です。​地図(Mapion)はこちらをご覧ください。

『万葉集』には、次の歌が詠まれ、収載されています。(資料6,7)

 いにしへもかく聞きつつや偲(しの)ひけむこの古川の清き瀬の音(と)を 巻7・1111
 とのぐもり雨ふる川のさざれ波間(ま)なくも君は思ほゆるかも     巻12・3012

 吾妹子や吾(あ)を忘らすな石上(いそのかみ)袖布留川の絶えむと思へや 巻12・3013

3012の歌について、折口信夫は『口譯萬葉集(下)』で、次のように記しています。
 との曇り雨布留川の小波(サザレナミ)、間なくも、君は思ほゆるかも
なお、3013の歌は載せていません。番号が飛んでいます。底本が異なるのでしょうね。

次回は藤原道長が泊まったという井戸堂あたりのご紹介です。

つづく

参照資料
1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室24 ~天理・中ツ道」 当日配布のレジュメ
   (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)
2) ​中ツ道​  :「天理観光協会」
3)『藤原道長「御堂関白日記」上 』全現代語訳 倉本一宏訳  講談社学術文庫 p317
4) ​長柄(ながら)​ :「天理観光協会」
5)​ 備前(びぜん)​ :「天理観光協会」
6) 『新訓 万葉集』 佐佐木信綱編  岩波文庫 上p286、下p59
7) ​布留川 石上神宮の歩き方​ :「石上神宮」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
古代の道はロマンに続く 「中ツ道」遺構の発掘​ :「古代史探究館」
中ツ道発掘と藤原宮発掘​  :「歴史ロマン探検隊」
環濠集落​  :ウィキペディア
竹之内・萱生(かよう)の環濠集落​  :「天理市観光協会」
稗田環濠集落​ :「トレジャーナビ」
番条町の紹介​ :「中谷酒造株式会社」
  室町時代の環濠集落について、言及しています。
全国里程表の作製を望む​  江口見留氏  
十市氏​ :「戦国大名探究」
天理観光協会​ ホームページ

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
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Last updated  2017.12.25 12:17:27
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