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遊心六中記

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2018.01.02
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カテゴリ:探訪 [再録]
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2015年に奈良国立博物館(以下、博物館と略)恒例の「正倉院展」を鑑賞に出かけました(2015.11.4)。正倉院展は長年ほとんど毎年鑑賞してきています。この展覧会の鑑賞が目的で出かけ、その後は、いつもそのときに思いつくままの奈良散策をします。
2015年の当日の散策記録をまとめたものを再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)

昨年末から年をまたぎ「薬師寺細見」をご紹介しています。興福寺もまた法相宗のお寺です。2017年11月に、中金堂に一時的に安置された阿修羅像を見たくて出かけた時のまとめを先般ご紹介しています。併せて、ご覧いただくとうれしい限りです。末尾に記します。
この再録も興福寺境内の一部を含んでいます。

冒頭の景色は、猿沢池の南側から撮ったもの(2010.10)です三条通、興福寺南円堂と石段を眺めた景色です。この景色を眺める位置に行く事は滅多にありません。しかし、これも興福寺を眺める場所の一つとして取り上げてみました。

JR奈良線で出かけ奈良駅に降り立つと、駅前の広場から三条通に入り、東方向に緩やかな坂道を歩みます。

この略図(2013.10)は後でも触れる案内図を少し拡大したものです。私は青色の矢線で追記した経路を歩き、博物館に向かうことが多いのです。

 

石段を上り始めると、すぐ西側の手前に石仏群が見え、その奧の方に「三重塔」が眺められます(2012.11)。この三重塔(国宝)は、1180年の被災後に再建された鎌倉時代の塔ですが、平安時代の建築様式を伝えていて、興福寺最古の建物だといいます。初層が方三間(4.8m)、本瓦葺で高さ19.1mです。(資料1、以下伽藍関連では付記省略)
この地蔵尊像や多くの石仏が立つ辺りの傾斜地に、鹿が来て草を食んでいるのを見たこともあります。

興福寺のルーツは、天智天皇の時代に山背国にあった「山階寺」であり、藤原鎌足の病気回復祈願のために、夫人の鏡女王が天智8年(669)に造営したと伝えられています。現在のJR山科駅に比較的近い場所辺りにこの山階寺があったようです。
一方、『日本書紀』を読むと、天智天皇8年の冬10月10日に、天智天皇が藤原内大臣(鎌足)の家に病気見舞いに行かれたこと。15日に大海人皇子を鎌足の家に遣わし、「大識の冠と大臣(おおおみ)を授けられた。姓を賜って藤原氏とされた。それ以後、通称藤原内大臣といった。」しかし、翌16日に藤原内大臣(鎌足)が死んだということが記されています(資料4)。藤原鎌足のごく晩年に山階寺が建立され、鎌足の死とともに、藤原氏という公式の氏族が発祥したのです。(資料2)

その後、壬申の乱(672)に飛鳥に都が戻ると、山階寺も移建され、地名をとって「廚坂寺」と改称されます。平城京への遷都に際し、和銅3年(710)藤原不比等の計画により、この地に藤原一族の寺「興福寺」をが造営されるに至るのです。元来、藤原氏の私寺でしたが、養老4年(720)に「造興福寺仏殿司」が設置されることにより、造営が国家の手に委ねられるのです。次々に堂塔伽藍が整備されていくことになります。そしてここが法相宗の大本山となります。(資料3,4)

この石段を上って、南円堂の正面のところで右折し参道を東に向かいます。
 
復元された「中門跡」の基壇越しに、「五重塔」を眺めた景色(2008.11)
       
                    復元された基壇に近いところの南側の築地塀
こちらは2015年帰路の途中に撮ったものです。壁面には5本の定規筋が引かれています。5本は最高の格式を示すそうです。(資料5)
中金堂は復元工事のただ中にあります。

                             東金堂の全景(2004.8)
これを撮ったのは、中門跡辺りが遺跡調査され、基壇の復元工事がされていたころだったと思います。


                                 東金堂(国宝)
こちらは今回撮ったもの。
中金堂の東に位置し、西向きに建っています。この東金堂も、神亀3年(726)の建立以来、6回も被災・再建を繰り返してきたそうです。室町時代・応永22年(1415)に再建された東金堂が現存する建物です。正面7間・側面4間の寄棟造、本瓦葺の建物。
「天平の礎石の上に、かなり忠実な復古をなしてゐる」(資料6)そうです。

本尊は薬師如来像で、脇侍に日光・月光菩薩(これらは銅造で重文)。そして、文珠菩薩像、維摩居士像、四天王像、十二神将像(こちらはいずれも木造で国宝)が安置されています。維摩居士坐像は建久7年(1196)仏師定慶の作。興福寺のホームページにある「金井杜道フォトギャラリー」のページに、この維摩居士坐像の写真が掲載されています。勿論、あの有名な阿修羅象や北円堂に安置されている運慶作の世親・無著像他も・・・。​こちらからアクセスしてご覧いただくとよいでしょう。

 
       
東金堂の正面(前面)は一間通りの吹放しになっていて、向拝はありません。軒下には、尾棰(タルキ)が整然と列を成す三手先斗組の美しい姿が眺められます。漆喰壁が白色で軒裏の木組みの間も白く塗られていて全体の調和が素敵です。
    
南東角から背・側面を眺めると、白壁と柱だけなので、7間4間の建物であることがすっきりとよくわかります。
 
 
       
屋根は葺き替えられたのでしょう。鬼瓦はその形態を継承しているのでしょうが、比較的新しい瓦に思えます。
鬼瓦をよく見ると、後にある隅棟の鬼瓦と前の稚児棟の鬼瓦では、鬼の2本の角の間と角の根元の装飾造形が大きくことなります。よく見ないと気づかないところにも、工夫が凝らされています。
 

                             五重塔(国宝)
東金堂の南側に「五重塔」があります。塔は仏教の祖である釈迦の舎利(しゃり遺骨)を納める墓標です。それが時代・地域の変遷を経て、雄渾かつ優美な五重塔の形態にまで変化してきたのです。

もともとは、天平2年(730)に藤原不比等の娘である光明皇后の発願により建立されたものです。「光明皇后御自ら簀をもって土を運び給ひ、夫人命婦文武百官杵を下して基を築き、一歳にして造功終わると寺伝は云ってゐる。」そして、「其の光明皇后の御願の主旨は『天地和合君臣合体』にあったといふ」(資料3)。この塔もその後やはり長い歴史の中で、5回の被災・再建を経ているのです。現在の塔は、室町時代・応永33年(1426)の再建によるもの。初層は方三間(8.7m)、本瓦葺で高さは50.1mだとか。
  
      

「奈良時代の特徴を随所に残していますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れた、大変に力強い塔です」(資料1) 五重塔の木組みを眺めていると、がっしりした力強さを感じます。
    
こちらの鬼瓦は、また東金堂のそれとは造形が異なります。これもおもしろいところです。


                   五重塔の正面(西面)の前に立つ石燈籠
石燈籠の笠の一隅が欠けています。全体が四角形を基軸とした燈籠です。四角い竿の背面に建立年が刻されているのかもしれませんが、不詳です。
  

火袋は連子部分が縦線であり、円窓を設けるだけのシンプルなもの。中台の側面は格狭間の文様が正面と側面で異なります。四角柱の竿は装飾も文字もなし。反花は花弁がわりと細身ですが深く彫られています。

今まで何度もこの前に立ちながら、その背後に、五重塔の燈籠の基礎があったということをほとんど意識していませんでした。このときこの場所を再認識した次第です。

       
                 猿沢池の西側から遠望する五重塔(2010.10)
ここが五重塔を眺めるお薦め地点でもあります。

 
 柳茶屋

東金堂と五重塔の間の道を東に進むと、このまとめを書いた頃は南側に「塔の茶屋」が少し高いところにありましたが、お店は2016年秋に市内の南城戸町に移転しました。新店舗はこちらからご覧ください。​   
道路を横断すると、道の北側には​「柳茶屋」​があり、南側には池と「大湯屋」が見えます。
「柳茶屋」は、猿沢池畔にもお店があります。​こちらからご覧ください。
  
 

国道169号線を横断すると、奈良公園の入口です。その先にある塔の礎石。博物館への路の途中で撮ったものです。
 
       
博物館の新館、壁面には今回の展示品のいくつかの写真がPRに使われています。

中でも今回(2015年)の展示の中では、この琵琶がやはり見応えのあるものでした。
紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)」です。右が正面で、左が背面。
当日購入した図録によれば、四絃四柱の琵琶で、全長98.5cm、最大幅40.7cmです。この形式はペルア起源だそうで、同様の四絃琵琶が5面現存するとか。捍撥(かんぱち)と称される箇所に描かれた絵はほとんど解りづらくなっていますが、捍撥絵描き起こしが展示されていて、見比べているとなんとなく感じ取れるくらいでした。背面の「槽には四弁花菱文・六弁花文・小花文の三種類を交互に規則正しく斜格子状に配す」というもの。過去に拝見した琵琶もそうですが、この象嵌された文様とその技術には感歎するばかりです。尚、部分的に明治時代に補修が施されているそうです。

今回鑑賞した中では、「平螺鈿背八角鏡(螺鈿飾りの鏡)」「玳瑁竹形如意(僧侶の持物)」「紅牙撥鏤尺(染め象牙のものさし)」「紫檀木画箱(献物箱)」がなかでも見応えのある品々でした

展覧会を見終えて、新館の庭側の外廊に出て、秋の庭を池越しに眺めました。
 
   
珍しいことに、鹿が庭に入り込んでいました。庭に鹿が居る景色を見るのは初めてでした。
背後にある茶室が、まさに奥深い田舎屋という雰囲気を醸してきます。こんな風に庭を眺めるのも、ちょっと変化があっておもしろいと思いました。


上掲の拡大した案内図はこの案内板です。三条通から左折し、南北の商店街通りを北に進むと、東側に日本聖公会奈良基督教会が見え、その少し先に右折する坂道があります。上掲のマゼンタ色矢線がそのルートです。案内図にある赤いマークのところに、この案内図が掲示されていたと思います。時折、このルートから興福寺境内に入り、北円堂を眺めながら、中門跡の前に出ることがあります。このルートも中々良いものです。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) ​興福寺の伽藍​  :「興福寺」
2) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p233-234
3)​ 興福寺について​ :「興福寺」
4) ​興福寺中金堂院回廊東南の調査​  :「現説公開サイト」
5) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p231
6) 『大和古寺』 井上政次著 日本評論社 p195-198 

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
興福寺​ ホームページ
興福寺​  :ウィキペディア
造寺司​  :ウィキペディア
山階寺跡​  :「フィールド・ミュージアム京都」
壬申の乱​  :「飛鳥の扉」
藤原 不比等​ :ウィキペディア
法相宗とは(教義について)​  :「薬師寺」
法相宗​  :ウィキペディア
奈良公園案内マップ​  :「奈良県 ようこそ」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


観照  展覧会の秋-京都と奈良ー、そして秋の紅葉 へ





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Last updated  2018.01.02 12:50:10
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