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遊心六中記

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2018.05.06
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カテゴリ:探訪
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今出川通を東に歩き、一旦北野天満宮境内に入ります。社殿の西側まで行きますと、境内の西辺になります。そこにこの「史跡 御土居の紅葉」という碑が建立されています。裏千家今日庵・千玄室氏の謹書です。
御土居の所在地は、「北野 上京区馬喰町」と資料で紹介されているところです。
 
                                   (2014.5.3)
上掲石碑の傍に、この案内板があります。御土居に関心を持ち始めたのはこの案内板を見たことと、別の機会に廬山寺を訪れて、御土居跡の存在を知ったことによります。2014年の時は、北野天満宮自体を目的として訪れていました。そのとき、御土居跡は見ていません。

今年は、梅花祭の終わりに近い時期に訪れました。まず、この北野の御土居を他の地点から眺めることができるか、紙屋川の西岸側も含めて周囲を探索してみましたが、駄目でした。西岸側は川沿いにビルや民家が道路沿いにずっと並んでいます。民家の間に1カ所天満宮の境内地に入れる道があり、その先に橋が架けてありましたが、渡った橋の傍が御土居の南端側で、御土居を遮蔽する外壁の近くにあたりました。
つまり、北野天満宮の境内地内だけにここの御土居を見ることのできる入口があり、受付所があります。(入苑料必要。梅花祭では梅苑とセット。先日の京都非公開文化財特別公開で、宝物殿にて海北友松筆「雲龍図屏風」を拝見するために入ったときはこの拝観券とセットでした。)

 
まず、振り返りを含めてこの図で位置関係を示しましょう。
赤色の丸がこの「北野」の御土居です。青色丸が「西ノ京 中京区西ノ京原町」の御土居、つまり「市五郎稲荷神社」です。黄色の丸が史跡指定のない御土居で北野中学校校庭北西端に存在しています。
 (2018.4.28) 
先日訪れた時は、「史跡 御土居の青もみじ」と題して、「青もみじ公開」(5月上旬~下旬)が行われる直前でした。(資料1)
 
この「青もみじマップ」が設置してあります。序でに、ご紹介していきます。
 史跡内に入るとこの案内板があります。入口から坂道を上がって行くと南北の道となっていて、西側の谷底に紙屋川が流れているのです。つまり、史跡御土居の上に立っていることになります

御土居上から紙屋川の傍までの階段が今は設けられています。
 
御土居上を南端側まで行って、北方向を眺めた景色
          御土居上の北方向
 
逆に北方向に行って、境内を展望しやすい場所に移動してみました。

  
北野天満宮の社殿をこういう高さから眺められます。            (2018.3.17)
御土居ができたのは1591年です。現在の日本最古の八棟造(権現造)の社殿は、慶長12年(1607)に秀吉の遺命により、秀頼が造営したものです。(資料1)
御土居が築造された当初、北野天満宮には違う景色が広がっていたようです。
     
                           御土居上に立つ案内板
まずは御土居そのものを探訪してみます。
         
 
紙屋川の東岸上通路の高さから北方向を眺めた御土居。 (2018.4.28に撮った景色)
           
                    この辺りを御土居上から見下ろした景色(2018.3.17)
 
                    川に沿って北に歩き振り向いたとき  御土居の斜面
 


    
現在は対岸に渡ってこの谷間の御土居跡が残る一帯を紅葉を楽しみながら、下流に架けられた橋を使い周遊できるようになっています。
 
これは御土居跡のある区域の南端側に架けられた橋上から紙屋川を眺めた景色です。

現在は、もみじ苑という形で整備され、紙屋川の護岸も整った景色ですが、御土居が築造された頃は紙屋川の谷間の河岸段丘地形をそのまま使いその上に連続する形で御土居が築かれていたのでしょうね。勿論防御目的ですから橋なんてなかったでしょう。

      
 
鶯橋から更に御土居の斜面を眺めながら進んで行くと、「版築工法」の説明板が立っています。
版築は「土を突き固めて堅牢な土塁や建物基壇を築造する技術」です。「その工法は、施工する部分を板で囲んで枠を造り、締め固めに適した土を10cm以下程度に薄く敷き均し、杵のような棒状の道具で、何度も何度も叩き上げ、層を積み重ねていったもの」といいます。(説明板より部分転記)
但し、この説明板によると、紙屋川の河岸段丘部が長年の風雨で浸食されているのを復旧するために、古来からの版築工法を利用したとか。秀吉が築いた御土居の盛土は版築工法によるものではなかったと付記されています。
         


     
秀吉が築いた「御土居」は、神域から紙屋川側に雨水などが流れ出ていくことを遮蔽してしまいます。そこで、雨水で神域が犯されないように「悪水抜き」の「切石組暗渠(地下式または蓋付きの導水路)」を設ける工夫が為されていたそうです。発掘調査で暗渠取水口も確認されています


 
この一番下の断面図で、現在位置の御土居の規模がわかります。
約5mの高さの紙屋川の河岸段丘上に、盛土が約3.5m積み上げられて、御土居は総高約8.5mあり、御土居基底部幅は約23mあったそうです。

 


 
御土居上の一隅に、この案内板も設置されています。
序でに、上掲の「青もみじマップ」に関連に明示の場所をご紹介しておきましょう。
 
御土居上の中間あたりですが、紙屋川の方に舞台が張り出されていて、そこに茶室「梅交軒」が設けられています。なかなか風雅な感じです。

 
その舞台の北東隅に、この案内板が設置されています。地図の部分は上掲で色丸を加えて利用しました。

 
こちらの断面図から、北野御土居が250mという長さで残り、「史跡御土居」の中では最長遺跡であることがわかります。
この断面部分の位置では、河岸段丘面からは御土居全体の総高が8.1mあり、御土居上の幅が12.6mあること、御土居の斜面は38度の傾斜になっていること、境内側では2.5mの土盛がなされ土塁が築造されているそうです。
上掲断面図の説明とあわせて、北野御土居の規模がイメージしやすくなったのではないでしょうか。

尚、御土居のサイズを一般論として補足しますと、前回の2ヵ所でイメージが少しできやすくなっていると思います。その築造場所によって、かなり幅があるようですが、入手資料によると、御土居基底部は9~30m、土塁の高さは3~3.5m、洛外側の堀幅は3.6~18mというサイズだそうです。(資料2)
堀を彫り込んでできる土を土塁の盛土に使うということだったのでしょう。そのことで築造工期が短縮されることにもなったのだろうと想像します。

また、本来の土塁には竹を植えて盛土を保護していたそうです。また木も茂っていたとのこと。「江戸時代に入ってからも、京都町奉行は竹木の保全に努め、上層町衆角倉家の支配のもと、付近の農民が管理していました。」(資料3)

この北野御土居から北方向に御土居巡りを続けます。

つづく

参照資料
1) ​北野天満宮​ ホームページ
2) 「史跡 御土居」 リーフレット 京都市文化観光局
3) ​聚楽第と御土居​  都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」

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Last updated  2018.05.16 21:02:41
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