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遊心六中記

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2018.11.07
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カテゴリ:探訪
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本圀寺の正嫡橋から、疏水の上流側を眺めたあと、疏水端を戻ります。
              
                                                                       途中で振り返った山科疏水端

引き返したのはこの道標のある地点までです。この道標は第1回目にご紹介しました。

天智天皇陵を示す矢印の道がこれです。ここから下り道となります。
右側の石柵やフェンスが御陵の境界になります。この境界沿いに歩くことになります
左に見える見た目にも新しい建物は公衆トイレです。疏水端にあるので便利ですね。
              
                                             通路を下り始めるときに、展望できる景色です。
ここから先では、下りつつ立ち止まり、振り返って撮った景色をある地点まで順にご紹介します
  石段道がしばらく続きます。
  鉄柵の左が御陵です。
           御陵沿いに山科疏水に抜ける道があるという雰囲気です。
 道標があります。
 
  通路はこんな感じです。
 
                  右の地点が御陵への参道に横手から入る入口になります
左の景色は上掲の通路の先が三条通に至る道になるようです。
 入口のところから歩いてきた道を眺めた景色 
この地点からここまでの通路を逆に冒頭まで辿っていただければ、疏水に抜ける経路のイメージができることでしょう。
天智天皇陵の参道の途中へと、横手(東側)から入ると、
      この箇所になります。
角に簡単な表示板が立っていて、一番手前のものに「びわこ疏水⇒」という表示が出ています。

 
御陵に向かいます。すぐ先にこの塀と門があります。
 石敷の参道を進むと、
 
宮内庁所管「山科部事務所」の木札が掲げられた管理事務所が見えます。
 近くで見かけた手水鉢

 
 
御陵は石柵が二重になっています。
 
正面に、楔が使われていませんので黒木鳥居の形式と思える石鳥居が見えます。外側の門扉よりも頑丈そうな鉄製門扉が設置され、右側の石柵の前に「天智天皇山科陵」と記された石標が立っています。

山科陵の背後には円錐形の「鏡山」(標高236.7m)が聳え、その山麓に南面して上円下方墳が築かれているそうです。(資料1)

『日本書紀』の巻二十七「天智天皇」には、天智天皇の十年、「十二月三日、天皇は近江宮で崩御された。十一日、新宮で殯(もがり)した」と記されています。そして、この地に埋葬されたといいます。『日本書紀』は、埋葬については記されていません。(資料2)
間もなく壬申の乱が勃発しましたので、山稜の造営どころではなかったことでしょう。天智天皇の後継者・大友皇子は大海人皇子(後の天武天皇)に敗れて自殺します。

『水鏡』には、不思議な記述があるようです。「(天智)天皇は馬に召されて山科に至り、林の中に入ったまま還御されず、その崩御されたことをあきらかにしない。ただ天皇が召し給うていた沓のみが落ちていたので、そこに山稜を築かれた云々としるしている」(資料1)とか。孫引きで原典は未確認です。

『続日本紀』の巻第一「文武天皇」には、文武天皇三年の「冬十月十三日 次のように詔された。
 天下の有罪の人々を赦免する。ただし十悪と強盗・窃盗の者は赦免に入れない。越智山陵(おちのやまさぎ 斉明天皇陵、大和国髙市郡)と山科山稜(天智天皇陵、山城国宇治郡)とを造営しようとするからである」(資料3)という記述が出てきます。
つまり、天智天皇崩御後、28年後に御陵が修造されることになったのです。

この天智天皇陵は、『延喜式』諸陵寮には、「陵の兆域は『東西十四町、南北十四町、陵戸六烟』」と記されているそうです。(資料1)極めて広大な御陵だったようです。
この御陵も中世の戦国時代に荒廃し、江戸時代には陵上に小祠が置かれ、山科郷人が管理にあたっていたとか。(資料1)

江戸時代に出版された『都名所図会』には、「御廟野」という見出しで「日岡の東をいう。天智天皇の御廟なり。むかしは野中にありしゆゑ、往来の人、馬籠より下り拝をなし通りける。余り里ちかく路の傍なれば恐れ多しとて、上なる山にうつし奉りぬ。世にいふ十陵の第一なり」(資料4)と。
この記述を踏まえると、広大な御陵は荒廃し原野化していき、人々が墳墓とみなしていた場所がある時点で御陵域の山側に移された可能性があるようです。上記の「陵上の小祠」が移されたということでしょうか。いずれにしても現在の形に整備されたのはたぶん明治になってからのことなのでしょう。

「上円下方墳」と上記していますが、「どうやら、幕末、近代の修陵の折、上円下方墳こそが天皇の山稜だとする『常識』に基づいて、この三重の『方形壇による荘厳』になったようです。」(資料5)という説があります。
 
外側の石柵前の石段の左側(西側)に石標が立っています。
この石標には、「天智天皇御陵兆域原標」と刻されています。御陵の測定の原点がこの地点ということでしょう。

以前に一度ある講座でこの天智天皇陵を訪れていて、そのまとめはご紹介ずみです。重複する部分がありますがそちらもご覧いただけるとうれしいです。
 
 
陵前の左側、少し離れたところにあるこのけっこう大きい岩石をこの再訪で確認できました。
御沓石(おんくついし)」と呼ばれているものです。まさに「沓(くつ)」という感じのする石です。上掲の『水鏡』に記されている落ちていた沓というのがこの石の上に置かれていたという伝承があるのです。(資料1) この御沓石のことが『都名所図会』にも記されています。上記のもう一つの記事にその内容を引用しています。
 上掲の石敷きの参道を板塀の門へと戻ります。
そこから真っ直ぐ参道を南に進みます。
 
門から南は砂利道の参道です。振り返ってみると、こんな景色です。
 
そして、御陵の参道の入口には、石橋が最初の結界の如くに設けられています。
 

天智天皇山科陵は、三条通に面したところが正面になっています。
三条通からはかなり奥まったところに、石橋と天皇陵であることを示す宮内庁の案内板が設置されています。
三条通から参道が御陵前まで凡そ400mほど北にのびていることになります。(資料1)

 
道標のところから、三条通沿いに西に少し進むと御陵の境界柵の前にこの「日時計碑」が設置されています。
上部は、篆字(てんじ)「天恩無窮」と刻された篆額となっています。1938年に京都時計商組合が創立20周年記念に建立されたものです。(資料6)

余談ですが、天智天皇と時計には深い関わりがあります。『日本書紀』に記される天智天皇10年の夏4月25日の条です。「漏刻(水時計)を新しい台の上におき、はじめての鐘・鼓を打って時刻を知らせた。この漏刻は天皇がまだ皇太子であった時に、始めて自分でお造りになったものであるという。云々。」と記されています。(資料2)
この日付は、グレゴリオ暦では671年6月10日になるそうです。そしてこの6月10日は「時の記念日」として設定されています。(資料7)
滋賀県大津市に所在の近江神宮には「漏刻」が推定され製作されています。また、「大津宮に漏刻(水時計)を築かれ国民に時を知らされた。時の祖神の偉業を仰ぐ時の記念日の祭典」として、6月10日には「漏刻祭」という行事が行われています。(資料8)

三条通を横断し、南側の歩道に行きますと、
 「陵ヶ岡みどりの径」という碑があります。
 
天智天皇陵の南の地点から西方向にこの小径が造られています。以前一度歩いたことがあります。
 
その近くで見つけたこのあたりの案内図を部分拡大してみました。この図では下辺が北、上辺が南という逆転した形で描かれています。その点はご注意ください。位置関係はおわかりいただけることでしょう。

 
この探訪では、三条通を東に歩き、山科駅の方に戻りました。この景色は三条通に旧東海道が合流する分岐点のところに位置する建物の塀と門を眺めたものです。
旧東海道を進むと、山科駅前の交差点に至ります。一方、三条通沿いに進めば、外環三条の交差点です。外環三条交差点から北に向かうと、山科駅前交差点、京阪山科駅、JR山科駅となります。

これでこの探訪のご紹介は終わりです。ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著  駸々堂
2) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟訳 講談社学術文庫 p237,p240
3) 『続日本紀(上) 全現代語訳』 宇治谷 孟訳 講談社学術文庫 p25
4) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注  角川文庫 p296-297
5) ​天智天皇陵限定公開参加記​  2015.2  奈良県歴史教育者協議会 浜田博生氏 
6) ​日時計碑​  :「京都市」
7) ​時の記念日​ :ウィキペディア
  ​時の記念日​ :「コトバンク」
8)​漏刻について​    :「近江神宮」
  ​年間祭典行事一覧​  :「近江神宮」

補遺
御廟野古墳​  :ウィキペディア
天智天皇山科陵​  天皇陵  :「宮内庁」
大友皇子​  :「コトバンク」
壬申の乱​  :「飛鳥の扉」
番外編「大友皇子伝説」​  :「飛鳥の扉」

  ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2018.11.07 11:32:33
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