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遊心六中記

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2019.08.20
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カテゴリ:探訪
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御廟所の数十m北側のところ、蓮池に架かる極楽橋からだと東に向かう参道を上ってくると、この石段に至ります。南側に六字名号板碑が立っています。墓地への入口です。
名号板碑の手前に、「江供養塔」の案内板が設置されています。
「江」の供養塔がこの金戒光明寺にあるというのを、この案内板で知りました。後で手許の書を見ると、「名家墳墓」の説明文の中に、徳川秀忠夫人崇源院という名称で記載されていました。(資料1)


この境内全景図に赤色、青色の丸を付記しています。
「江供養塔」は上掲の石段手前を左側、つまり北方向に進み、石段を上って行った上壇に建立されています。(赤い丸をつけたところ)
  
基壇の上に大きな宝篋印塔が建立されていて、左側に銘板碑が立っています。
    
近江国湖北にある小谷城の城主淺井長政を父に、織田信長の妹・お市を母として、三姉妹が生まれます。その三姉妹とは、後に豊臣秀吉の側室となり淀殿と呼ばれた茶々、京極高次の正室となったお初、そして徳川二代将軍秀忠の正室となったお江(1573~1626)です。お江与とも称され、諱は達子だそうです。法名は崇源院殿昌誉和興仁清。墓所は東京芝の増上寺です。
この供養塔は秀忠夫人お江が1626(寛永3)年54歳で没した後に、三代将軍家光の乳母であった春日局が、追善菩提のために建立し、お江の遺髪が納められていると言います。(銘板説明より)
 
塔身の四面は月輪の中に梵字が彫られています。その下の基礎の正面中央に「崇徳院殿一品大夫人昌誉仁清」と記されていると判読しました。
  
             基礎の西面                   基礎の北面  
        基礎の東面
 
基礎の他の三面には蓮の花様の形が外郭として刻まれています。

 再び、墓地入口に戻り、石段を上って左折すると、
 
文珠塔への真っ直ぐな石段が続きます。石段北側の桁石上面に「文珠塔参道」という文字が刻まれています。その脇に拝見したかった「五劫思惟阿弥陀仏像」が鎮座されていました。(青い丸をつけたところ)
金戒光明寺探訪の目的の1つが、この五劫思惟阿弥陀仏像を見仏することでした。

その斜め手前に「山崎闇齋先生墳墓」への道標石柱が建てられています。「文珠塔東北二十間許にアリ」と表記してあります。今回はこの墳墓は未訪です。

山崎闇斎は「江戸前期の儒者・神道家。京都の人。谷時中(たにじちゅう)に朱子学を学び開塾。数千人の弟子を育成。晩年、吉川惟足(これたり)より神道を伝授され、垂加(すいか)神道を創唱。著書『垂加神道』など。」(日本語大辞典・講談社)という人物です。

 
                 
石段の北側脇には、正面から拝見すると石仏像が幾体も安置されています。その最奥に五劫思惟阿弥陀像が鎮座します。

 
石造地蔵菩薩立像の斜め右後で、上掲「山崎闇齋先生墳墓」道標の前に、「藤村庸軒翁墓」への道標石柱が立っています。
藤村庸軒は、江戸前期の茶人。京の呉服商。小堀遠州・金森宗和に学んだのち、千宗旦に師事した人。千家の全式を受けて四天王の一人となり、庸軒流を開いたと言います。山崎闇斎に漢学を学んでもいて、漢詩文に優れ、『庸軒詩集』を出しているそうです。(資料2)

周辺に色々と学びの種がありますが、眼目の石仏に着目いたしましょう。
 
                
      
 
「五劫思惟(ごこうしゅい)阿弥陀仏」の特異な点は螺髪(頭髪)の表現です。
  
おおいかぶさるような非常に大きな髪型です。現代風に言えばアフロヘアーのスタイルです。
なぜこんな髪型を? 

それは「五劫思惟」という言葉に秘められています。
「しゅい」と発音する「思惟」という言葉は、国語辞典に載っています。「しい」と読み、「(1)考え思うこと。論理的な思考。(2)哲学で、もっぱら理性に基づいて、問題について思考すること」(同上の辞典)ですので、阿弥陀仏-実は法蔵比丘/法蔵菩薩-が考えておられる状態を表象しています。

そこで、「五劫」が問題です。頭髪が伸びるというのは時間の問題です。断髪せずにいればどんどん長くなります。つまり、阿弥陀仏となる前の修行段階で長い時間考えつづけていらっしゃった結果、こんなに頭髪が伸びてしまったという姿を具現化したというものです。

「五劫」は「劫」という単位の5倍です。では、「劫」という時間の長さはどれだけ?

”一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のこと”(資料3)なのだとか。とてつもない時間の長さです。こんなお姿の阿弥陀仏像は全国でも16体ほどしか見られないと言います。(資料3)

阿弥陀仏が未だ修行中の時の名前を法蔵比丘と言います。『大無量寿経』で、仏が阿難に語る中に、この五劫が出て来ます。法蔵比丘が「無上・殊勝の願を超発せり」と。そして、法蔵比丘が「五劫を具足して、仏国を荘厳すべき清浄の行を思惟し、摂取せり」と語るのです。この経典では、この後に四十八願の内容が説かれて行きます。
参照資料では、五劫に対する註の中で、次のように記しています。
「浄土教では、法蔵菩薩が発願して衆生救済と浄土建設のために長年月を要した修行を『五劫思惟』と呼ぶ」。そして「五劫の思惟とは独坐の思惟を内容とする。これは、原始仏教いらいブツダをはじめ仏弟子たちが修した基本的瞑想法である。真宗では五劫を発願に至るまでの思惟とみ、修行とはみない」と。(資料4)

五劫思惟阿弥陀仏像を見仏した後、少し墓地の石段を上ってみました。
 
この石段は、文珠塔への参道であり、この丘陵地に階段状に開削された墓地のそれぞれの墓域に参拝する主要通路でもあります。
 
               
           参道を上がると、無縫塔の並ぶ一画があったり、石碑も建立されています。
 
                
         参道傍に、南面する形で石造阿弥陀仏坐像が安置されています。

 
石仏の傍から南西を眺めると、山門の屋根と市内が眺望できます。

それでは、金戒光明寺の探訪について、この後は、探訪経路をわかりやすく整理編集してご紹介したいと思います。
正攻法である表参道からの探訪という形でまとめて、ご紹介を続けます。

つづく

参照資料
1) 『昭和京都名所図会 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p182-188
2) ​藤村庸軒​ :「コトバンク」
3) ​五劫思惟阿弥陀仏​  :「金戒光明寺」
4) 『浄土三部経 上(大無量寿経)』 中村元・早島鏡正・紀野一義 訳注 
      岩波文庫 p132,p271-272

補遺
崇源院​  :ウィキペディア
お江​   :「コトバンク」
お江とは?(江・お江与の方・小督・崇源院) [大奥・お市の方娘] ​:「NAVERまとめ」
法蔵菩薩​  :「コトバンク」
法蔵菩薩​  :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」
五劫思惟​  :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」
秘仏 五劫思惟阿弥陀如来坐像​  :「東大寺」
アフロ仏像で有名!五劫院「五刧思惟阿弥陀如来」が特別公開される2017年2月12日~2月18日​ 
      :「DEEPだぜ!!奈良は。」
山崎闇斎​  :「コトバンク」
山崎闇斎​  :ウィキペディア
崎門学研究会​  ホームページ
藤村庸軒​  :「コトバンク」
藤村庸軒​  :ウィキペディア
茶杓 銘真長者 藤村庸軒作​  :「ミホミュージアム_」

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スポット探訪 京都・左京 金戒光明寺細見 -1 蓮池院(熊谷堂)・御廟・熊谷塔・敦盛塔・蓮池ほか へ

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Last updated  2019.08.20 18:00:59
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