|
カテゴリ:探訪
大石稲荷、お地蔵さまの前を南に向かいますと、山科神社への坂道があり正面にこの建物が見えます。山科神社の社務所のようです。 右折して、坂道を上ります。岩屋寺の南西方向で、さらに高い位置にあります。 振り返ると、このような景色です。 石段を登り切ると、正面に拝殿があり、右側斜め奥に手水舎と受付所と思える建物が見えます。 手水舎の寄進された水鉢の正面には「岩屋大明神」と刻されています。 間口三間、奥行二間、入母屋造本瓦葺で、質朴な感じの拝殿です。 本殿側の桁が緩やかな円弧のアーチ状になっているという特徴が見られます。 拝殿屋根の鬼瓦 拝殿を回り込み、一段高い位置にある本殿に向かいます。 石段の両脇には狛犬が配置されています。 本殿は菱格子窓の瑞垣で囲われ、朱塗りの外観です。 正面扉の前に弊束が立てられ、支持台に御鏡(円鏡)が置かれ、三方に瓶子が供えてあります。 神社は岩ヶ谷の山腹にあり、旧西野山村の産土神です。 祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)とその御子稚武王(わかたけるのみこ)。 社伝によれば、寛平9年(897)宇多天皇の勅命により創祀されたと伝えられています。この地の豪族宮道氏の祖神とも。むかしは山科一ノ宮と呼ばれ、西岩屋大明神とも呼ばれたと言います。たびたびの兵火により旧記が失われ、由緒沿革はあきらかでないようです。(資料1,案内板) 明治維新後に、山科神社と改称されました。(資料1) 本殿は東に面して建ち、三間社流造で、細部の彫刻の作風などから「室町時代後期造営の可能性もあるが、一部に後補材が認められ、江戸時代前期には現在の形態になったものと考えられる」(駒札より)そうです。1984年6月1日、京都市指定有形文化財に指定されています。 蟇股は透かし彫りで極彩色です。 本殿の南側面 本殿の北側面 本殿瑞垣の右側前に立つ石灯籠の竿の背面には、寛永20年(1643)の刻銘が読み取れます。 石段下の傍に立つ駒札 本殿の北側には、境内社がずらりと一列に配され、全体に覆屋が設けてあります。 東端に三社 左から稲荷社・山王社・夷(えびす)社。 中央に位置する春日社(左)、その東隣は竃社(右)。 弁財天社(左)、春日社の西隣は天満宮社(右)。 西端に愛宕神社が祀られています。 本殿の南側に権殿が祀られています。権殿とは「社殿を造営・修理する間、神体を仮に奉安する場所。仮殿」(「デジタル大辞泉」)を意味します。 権殿の南東側に、護国社があります。 これで、境内地を一巡したことになります。 「西岩屋大明神」と呼ばれていたと記したこと及び、上掲由緒の案内板に、赤穂浪士の大石良雄が「当社奥の院岩屋神社に参篭して、・・・・」という記述があることの疑問から少し、ネット検索で調べてみました。 この山科には、近世に岩屋三社と呼ばれ、西岩屋・東岩屋・上岩屋という三社があったそうです。西岩屋が現山科神社です。上岩屋は現在では不明になっています。そして、東岩屋が現在の岩屋神社(山科区大宅中小路町)だそうです。(資料2,3) 石段を下り岩屋寺の山門前石段まで一旦戻り、今探訪の最終段階になります。 つづく 参照資料 1)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p323 2) 由緒 :「岩屋神社」 3) 岩屋神社 平成祭礼データ :「神奈備」 補遺 やましなを歩く西野山と大石良雄遺跡 :「山科区」 山科神社についての記載あり。 岩屋神社 ホームページ 宮道弥益 :ウィキペディア 宮道列子 :ウィキペディア 宮道神社(京都市山科区) :「京都風光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) 探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ 探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ 探訪 京都市山科区 大石道を歩く -3 稲荷社・僧正遍昭墓・福応寺 へ 探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社 へ 探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ 探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ 探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ 探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へ こちらもご覧いただけるとうれしいです。 探訪 [再録] 京都・山科 勧修寺を歩く -4 宮道神社・八幡宮 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.04.07 09:37:18
コメント(0) | コメントを書く |