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カテゴリ:観照 & 探訪
「西洞院高辻」の交差点から高辻通を数十メートル西に入ります。 (当日は、東中筋通を南方向から上り、高辻通で右折して東に向かうという形で現地に行きました。) 高辻通の北側歩道に面して、遺跡地が見える形で整備されています。「永養寺町」に所在します。 遺跡地の北端に「道元禅師示寂聖地」と刻された碑が建立されています。 南西隅の北側歩道から眺めた景色 「道元禅師遺蹟之地」と刻した石標が道路傍に設置されています。 南東隅には、駒札が設置されています。 建長5年(1253)病の療養のために、道元禅師は弟子懐弉を伴って上洛され、この地にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在されたそうです。そして、同年8月にこの地で満53歳の生涯を閉じられたと言います。 この遺跡地は大本山永平寺が管理されているようです。 道元禅師はもともと京とは縁の深い人です。 駒札に、正治2年(1200)京都で生まれと記されています。 宇治市木幡の丘陵地に「松殿山荘」があります。現在は「松殿山荘茶道会」という財団法人の所有地ですが、この地はもと関白藤原基房が松殿(まつどの)という別業を営んでいたところだそうです。道元はこの松殿で生誕したとの言い伝えがあります。(資料1) 道元は「内大臣久我通親(こがみちちか)(1149―1202)の子。一説に通親の子通具(みちとも)(1171―1227)の子ともいう。母は藤原基房(ふじわらのもとふさ)の女(むすめ)(三女の伊子(いし)(?―1207)と推定される)。」(資料2) なお、京都市伏見区久我には、「妙覚山誕生寺」と称し、曹洞宗を開いた道元禅師の誕生の地と言われる久我(こが)の地に建てられたお寺があります。以前に、ある史跡探訪講座の探訪先の一つとしてこの誕生寺を訪れたことがあります。 道元は12歳の春に出家し、比叡山に上り修行に入ります。その後、京都・建仁寺にて栄西禅師の高弟・明全和尚に師事されます。そして、入宋し5年に及ぶ修行経て日本に帰国。 1233年34歳の時に、京の深草の地に興聖寺を開山されます。この興聖寺が後に宇治に移ります。宇治川東岸に位置する現在の興聖寺です。(資料3,4) 京都で没した道元禅師は、弟子等が東山赤築地で荼毘に付しました。そこには「道元禅師荼毘御遺跡塔」が設けられています。調べてみて知りました。(資料5) この地も探訪してみたいと思っています。 道元禅師の墓はどこに? 調べてみますと、大本山永平寺内の「承陽殿」がお墓に相当する廟だそうです。(資料6) 序でに、この示寂地の地名は永養寺町ですがお寺はなさそうです。調べてみますと、寺町通高辻の東入ルに永養寺が所在します(恵美須之町)。北隣りは乗願寺、そして空也寺等とお寺が北に連なっています。高辻通を挟んで南には浄国寺があります。 寺町通から想像できますね。豊臣秀吉が京都の大改造の一環として、鴨川の西岸に南北の寺町通を設けて、洛中のお寺を強制的に移転させたのです。有事の際には外敵防衛の第一線、拠点にするという狙いを持っていたのでしょう。 浄土宗のお寺で、開創は不詳。1481年に再興され、1585年に寺町通に移ったと言います。(資料7) また1つ、探訪課題ができました。探訪は尽きません。 ご覧いただきありがとうございます。 参照資料 1) 公益財団法人 松殿山荘茶道会 ホームページ 2) 道元 :「コトバンク」 3) 道元禅師略歴 :「大本山永平寺」 4) 道元禅師のご生涯 :「曹洞宗近畿管区教化センター」 5) 道元禅師荼毘御遺跡塔 :「フィールド・ミュージアム京都」 6) 開祖、道元禅師のお墓にあたります :「4travel.jp」 7) 永養寺 (京都市下京区) :「お寺の風景と陶芸」 補遺 大本山永平寺 公式サイト 道元 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) こちらもご覧いただけるとうれしいです。 スポット探訪 [再録] 宇治 興聖寺細見 3回のシリーズでご紹介。 探訪 京都・洛南 久我・羽束師を歩く -2 誕生寺 探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観) 6回のシリーズでご紹介。 探訪 京都・東山 建仁寺塔頭 久昌院 探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に 5回のシリーズでご紹介。 スポット探訪 京都・東山 初詣 建仁寺禅居庵 摩利支尊天 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.04.27 00:10:06
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