スポット探訪 京都・上京 東向観音寺
北野天満宮は幾度か訪れていて、この東向観音寺が北野天満宮社殿の南西側にあることは知りながら、訪れたことがありません。そこで、史跡御土居の探訪と併せて、このお寺を訪ねてみることにしました。天満宮境内地、二の鳥居の西側に位置します。 山門に向かい左側の築地塀脇には「役行者 神変大菩薩」の石標が立ち、右側に駒札が立っています。駒札には「観音寺」と記しています。なぜか?もとは、天暦年間(947~957)に最鎮(最珍とも)が創建し、北野天満宮の神宮寺だったと伝えられています。「はじめ東西両向の二堂があったが、西向の堂は早く廃絶し東向の堂のみが残ったので一に『東向観音寺』という」(資料1)とのこと。14世紀には、無人如導による中興で律宗のお寺となり、17世紀に豊臣秀吉が朱印地602石を寄進するとともに北野天満宮を復興した際に、観音寺も整備したそうです。 現在は、朝日山と号する真言宗泉涌寺派のお寺です。準別格本山となっているとか。(資料1,2,3)地図にも「東向観音寺」で載っていますので、「観音寺」という寺名よりも「東向観音寺」で知られています。門柱にも「朝日山北野東向観音寺」と記された木札が掛けられています。洛陽三十三所観音霊場の三十一番札所です。 山門を入ると、正面に「礼堂」が見えます。礼堂は参拝空間で、この建物の背後(西側)に「本堂」があります。本堂は慶長元年(1596)に再建されたお堂です。礼堂と造合が元禄7年(1694)に本堂正面に増築されたそうです。本堂に安置されている本尊は十一面観世音菩薩像です。この仏像は菅原道真自作で、応和元年(961)で九州の筑紫観世音寺から請来したものといわれています。梅と松の両木から作られていることから、「二木観音」とも称されているとか。(資料1,3)尚、この本尊は天満宮本地仏であることから、25年に一度の御開帳として秘仏になっているそうです。直近の御開帳は2027年といいます。(資料2)礼堂正面に、不動明王の提灯が吊されています。不動明王像は諸仏とともに、礼堂に祀られています。 向拝の側面には、猪目懸魚が見えます。木鼻はいたってシンプルな造形です。 屋根を見上げると、棟の端は獅子口で、菊花がレリーフされています。 降棟の先端の鬼瓦 隅棟を眺めると後は鬼瓦ですが、前の稚児棟のところは龍が彫刻されたものでした。これは少し色補正の加工をしてわかったのです。現地では逆光で肉眼では明瞭に見えませんでした。比較的小規模な境内です。山門を入ると、右側に「白衣観世音」を祀るお堂があります。現在は正面の格子戸に「撮影禁止」の札が掛けてあります。この観音様は、子授け観音、世継観音とも言われていているそうです。 山門を入った左側には手水鉢が見えます。南側に井戸があり覆屋が付けられています。手水鉢の正面には一条藤の紋章が浮彫りにされています。江戸時代には一條家の祈願所となった(資料2)とのことですから、その関係でしょうか。 覆屋は宝形造の屋根です。露盤の上には龍像らしきものが見えます。 境内の南辺に「岩雲辨財天」と墨書された赤提灯を吊した辨財天社があります。 その西側に、東面して建つのが「行者堂」です。 門前に立つ石標に刻されている役行者・神変大菩薩像を祀るお堂です。その傍には、何十回という回数を記した大峯山登拝記念碑が数多く奉納されています。 行者堂の背後には、五輪塔、宝篋印塔が並び、そこに小祠が見えます。 小祠の傍に立つ駒札の文字が読みづらくなっていますが、「土蜘蛛」という字が判読できました。 行者堂の側面傍に、この駒札が立っています。最初、駒札の標題だけ読み、灯籠はどこに?と周囲を眺めてしまったのです。説明文を読み、上掲の小祠と結びつきました。 小祠に安置されているのは、土蜘蛛灯籠とされるものの火袋と笠部分。石灯籠の残欠がここに奉納され、蜘蛛塚として祀られているのです。もとは七本松通一条上ル清和院前に蜘蛛塚と称される隆然たる墳丘が存在し、そこが源頼光を悩ました土蜘蛛が棲息していた場所と伝えられていたそうです。明治31年(1898)にその塚が破却され、発掘された際に遺物の中に石灯籠の残欠があったとか。その火袋がこれという次第です。『京都坊目誌』(上巻五)にその記載があり、考証に資すべきものはなかったと記されているそうです。(資料1)また、背後に並ぶ五輪石塔三基は、天満宮の東、馬喰町の民家の裏にあった無名古墳のものが、ここに移されたといいます。(資料1) 西側に目を転じると、この大きな五輪塔があります。高さ4.5mだとか(資料3)。「伴氏廟」と刻された石標が傍に立っています。 北西側から眺めて上部の文字が正確に判読できなかったので、お寺の方にお尋ねし理解できました。この五輪塔は菅原道真の母・伴氏を供養する廟塔と伝えられるそうです。 北野天満宮境内三の鳥居のそばに「伴氏社」があります。五輪塔はもとはこの社の傍に祀られていたのだとか。それが明治の神仏分離令の発布により、この社の傍に置いておくことができないということで、東向観音寺の境内に明治4年(1871)に移されました。この五輪塔自体は鎌倉時代中期の作といいます。(資料1,4)江戸時代に発刊された『都名所図会』を読みますと、「東向観音」という見出しの項に次のように説明しています。(資料4)「忌明塔(いみあけとう)の西側にあり。本尊は梅桜の二樹を以て、菅神御手づから刻ませ給ふ十一面観世音なり」室町時代には父母を亡くした人が、四十九日の喪に服し、忌明けの五十日にこの塔に詣でる風習があったことから、「北野の忌明塔」と称されたといいます。(資料1,2)京都には、忌明塔として知られるものとして、寺町の革堂(こうどう)、東山の知恩院、八幡市の石清水八幡宮のそれぞれに五輪塔があります。(資料1,4) 境内の一隅に、石仏を集めて安置してある場所がありました。各石仏に赤いよだれかけを付けてありますので、わからないのですが、お地蔵様だけでなく、他の仏像も彫られている印象をこの画像をあらためてみて感じました。また空色の宝形造屋根の小祠の中の石仏もまた、お地蔵様ではなさそうな・・・・・。再見すべき課題が残りました。最後に、山門を改めて眺めてからお寺を出ることにしました。 ここは蕪懸魚が使われているようです。また屋根を支える蟇股はシンプルですが彫り込んだ部分が白く塗られていて意匠にリズム感があ見られていいですね。 木鼻の形はシンプルです。そこで、門前に掲示の駒札に少し戻っておきたいと思います。 これは、上掲礼堂の向拝の柱上部です。駒札に記載の説明を確認するために部分拡大してみました。駒札に「礼堂正面の向拝は柱上に大斗を据えず、絵様肘木を柱頭部に落とし込む珍しい手法をとっている」と説明している部分です。こうして対比すると、建物の細部を眺める面白さにつながる一歩になると思います。 向拝の屋根の両端に獅子の飾り瓦が置かれています。わりと静態の獅子の姿を表現している感じです。ダイナミックな獅子像をよく見かけますので、こんな獅子像もいいですね。そして、屋根の降棟の先端にある鬼板には、上掲手水鉢と同様に、一條藤の紋章レリーフが見えます。これで東向観音寺の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p207,214,2152) 北野東向観音寺 公式ホームページ3) 『京都府の歴史散歩 上』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p1654) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p323補遺39.頼光と四天王の鬼退治(四)土蜘蛛草紙絵巻物語 :「京洛そぞろ歩き」知恩院の五輪塔 :「石仏と石塔」知恩院五輪塔 :「石造美術紀行」革堂(こうどう)(行願寺)五輪塔 :「石仏と石塔」五輪塔(航海記念塔):「石清水八幡宮」斗栱・蟇股・木鼻のお話 :「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」 軒と組物 :「ひとかかえ大きな木」こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 北野天満宮細見 -1 東門・手水舎・竃社・名月舎 7回シリーズでまとめています。