スポット探訪[再録] 奈良・正倉院
奈良国立博物館で「正倉院展」開の催期間中、正倉院の「正倉」外構が一般公開されます。かなり以前に訪れたことがあるのですが、2015年の正倉院展の折、博物館で案内掲示をみて、それを機縁に久しぶりに足を延ばしたのです。 [注記:探訪時期・2015年11月]築地塀で囲まれた正倉院の一角に参観門があります。冒頭の左の写真がそれ。右の写真は、参観の折にいただいたリーフレットを見開きに開いたところです。この全体の大きさがさらに見開きに広がる表裏印刷の1枚の案内資料です。博物館で当日購入した図録他を合わせて参照しながら、ご紹介します。 参観門を入り通路を進むと、西側の築地塀越しに「東宝庫」が見えます。昭和28年(1953)に鉄骨鉄筋コンクリート造りで建築されたもの。この宝庫には、「染織品を中心とした整理中の宝物と聖語蔵(しょうごぞう)経巻が収納されています」(資料1)。聖語蔵はもとは東大寺の塔頭尊勝院の経蔵だった校倉で、これが東宝庫の前方に移築されているそうです。この校倉に保管されていた約5,000巻の経典類が、現在は空気調和設備が完備されたこの東宝庫に収納されているのだとか。右の周辺図はリーフレットからの引用図です。位置関係がご理解いただけるでしょう。 その先はすこし広いエリアになっていて、西方向にもう一つ門があります。門の左側に掲示板が設置されていますが、後ほどご紹介します。その地点から南を眺めたのが、左の写真です。東宝庫の建物の北側面です。開かれた門の先に、「正倉」が見えます。午後の後半だったので、逆光状態でした。この正倉は、平成9年(1997)に国宝に指定され、正倉周辺は史跡となっています。また、平成10年には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。リーフレットに掲載の全景写真を借用します。折れ筋が出ていますが、全体の状況はこんな感じなのです。奈良・平安時代の官庁や大寺は、重要物品(穀物や調布など)を収納する施設・正倉(しょうそう)を設置していたのです。この正倉が幾棟も建ち並ぶ区画が正倉院と呼ばれたと言います。時代の変遷とともに、東大寺の正倉以外はすべて消滅し、最終的に東大寺正倉院の中で、この正倉一棟だけが往時のままの姿で現在まで残ったのです。その結果、「正倉院」「正倉」と言えば固有名詞のごとくに、この建物をさすことになりました。桁行(南北)33m、梁間(東西)9.4m、高さ14m、床高2.7m、寄棟造(よせむねづくり)、瓦葺の建物です。「近年行われた年輪年代測定によって、正倉は740年から50年にかけて伐採された木材を用いて建立されたことが判明している」(資料2)そうです。ちなみに、大仏の開眼は天平勝宝4年(752)年です。正倉の方が先にできていたのかもしれません。この正倉は巨大な檜材を用いて建てられているそうで、高床式の構造が、保管された宝物の湿損や虫害を防ぐ効果があったようです。 この図も、リーフレットからの引用です。正倉の内部は3部屋に分けられているのです。北から北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)と呼ばれています。正倉院といえば校倉造(あぜくらづくり)と学び、記憶したものです。しかし、実際の正倉は、次の写真にあるように、北倉と南倉が、断面が三角形となる木材-これを「校木(あぜき)」と呼ぶそうです-を井桁に組み上げた「校倉造」なのですが、中倉はご覧の通り、角材が組み上げられた形の「板倉造(いたくらづくり)」です。正倉全体はいわばハイブリッド型なのですね。内部は、引用写真にある通り、二層となっているそうです。 建物の北寄りを眺めると、正倉の建物の北側に、黒木鳥居の形式の入口と瑞垣で囲まれ、朱塗りの小社が設けられています。 正倉の外観細部を見ますと、寄棟造の屋根は丸瓦の連なる曲線とその姿が優美です。軒丸瓦の瓦当(がとう)には、正倉院の文字が陽刻されています。「院」の書体は篆書のようです。 扉の形式は、外観を眺める限りでは同じです。必要な時以外は、梯子あるいは階段を付けないというのは、防犯を考えてのことでしょうか。これは中倉の板倉造の壁ですが、奈良時代「校倉」は倉庫建築の技法として広く利用されていたのです。校倉の構法による建物は、唐招提寺や東大寺にも現存するようです。滋賀県の石山寺にも小規模ですが校倉の建物があったと記憶します。「断面三角形の木材を壁面に用いた理由は、長年の自然乾燥にによって校木に生ずる隙間をふせぐことに目的があったとする説がある。壁面の校木は屋根の重みを受けているが、校木と校木が小さい面で接する方が重みによる圧着度が増し隙間を塞ぐ効果が生じるという」(資料2)ことだとか。外気の湿度との関係で、校木が伸縮し外気の流入をふせぐという説は、「実際には天候によって建物の機密度に変化が生じることはないことが正倉院事務所の調査によって明らかになっている」そうです。(資料2) この床下を眺めると、丸柱が自然石を礎石として縦横に並んで巨大な本屋(ほんおく)を維持しています。この丸柱の直径は約60cmだそうです。鉄環で補強されているものと鉄環の内ものが見られます。柵のところで、北と南の両方向を眺めると樹木に囲まれた小ぶりな池が作られています。正倉の周囲は、芝生と砂利が敷かれた構内になっています。正倉の南西方向に、西宝庫の屋根が見えます。その南には周辺図によれば、「大仏池」があるようです。この西宝庫は昭和37年(1962)に建築され、「正倉に代わって整理済みの宝物を収蔵している勅封倉で、毎年秋季に開封され、宝物の点検、調査などが行われます」(資料1)。『続日本紀』を読むと、聖武天皇から皇位を継承した孝謙天皇の巻十九に、天平勝宝8年の「六月二十一日 七七日(四十九日)なので興福寺で斎会を行なった。僧と沙弥が千百余人参加した」(資料3)という記録があります。この書にはこれだけが記されているだけですが、この忌日に光明皇后は聖武天皇の冥福を祈念し、聖武天皇の遺愛品などを650件ほど東大寺に献納されたのです。この時の献納品の献物目録が『国家珍宝帳』として残されているのです。光明皇后の奉献はその前後5回におよぶそうです。(資料1,2)それらが、現在正倉院宝物と称されるもので、その中から、毎年「正倉院展」として60点余が選定されて、一般公開されていることになります。正倉を眺めた後で、上記の案内掲示板を拝見したのです。そこには平成24-25年(2012-13)の正倉の屋根の工事写真が掲示されていました。屋根瓦の葺替・修復や屋根裏の耐震補強工事が行われたようです。ガラス越しの写真ですので、反射して見づらいものですが、多少は見られるものを参考にご紹介したいと思います。 平成24年6月に屋根瓦が撤去された完了時点の状況 屋根の北西隅部の軒平瓦葺が完了し、平瓦の荷揚実施時の状況4395,4397 平成25年11月の屋根工事・瓦葺き完了の状況 南西隅部で、左が西面で新規瓦、右が南面で再用瓦での葺上げ 同時期、南東隅部。左が南面。右が東面(再用瓦+新規瓦)屋根裏の構造材に耐震補強が施工された状況を示す写真。上段(工事前)、下段(工事後)比較的参観者が少なかったので、ゆっくりと静かに眺めることができました。 参観門を出る手前、南方向の景色最後に、リーフレットに掲載の正倉院御物の琵琶の一つの写真を引用させていただきます。2015年の正倉院展では、四絃四柱の琵琶が展示されていました。こちらは五絃の琵琶です。文様のデザイン感覚がまるで異なります。いずれも精巧な魅せられる琵琶であることは間違いありません。 (2016.11.25 再録にあたり追補)ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「正倉院」 当日いただいたリーフレット 発行;菊葉文化協会2) 『平成二十七年 正倉院展』 奈良国立博物館 3) 『続日本紀 (中)全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺正倉院 :「宮内庁」正倉院 :ウィキペディア正倉院って何だろう? キッズサイト :「正倉院展」(読売新聞)菊葉文化協会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂)へ探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池 へ探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ探訪[再録] 東大寺境内 -2 鐘楼・行基堂・念仏堂・俊乗堂・辛国社 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ探訪 東大寺境内再訪 -1 手向山八幡宮・法華堂(三月堂)へ探訪 東大寺境内再訪 -2 二月堂・龍王の瀧・閼伽井屋・三昧堂ほか へ