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テーマ:暮らしを楽しむ(387799)
カテゴリ:森林など
今も昔も木曽の山というのは建築材として貴重な木材を数多く産出しています
かつて関ヶ原の戦い後の江戸時代の初期にはさまざまな建材類とするため森林の伐採が進み山は荒廃してしまいました そこで尾張藩により森林の保護政策がとられヒノキの伐採を禁止しました さらに誤伐採を防ぐためヒノキに似たアスナロやサワラに続き希少なコウヤマキの伐採も禁止としさらにネズコも追加しました こうして木曽の山は荒廃から救われました、これらを木曽五木と言いますが現代のように単に伐るのは罪だ! みたいな誤解だけはしてはいけません、ある程度手を加えてやらないとやがて荒廃して全滅(二次遷移)するかも? なんて木曽見てまわりの最後はチト真面目に・・・ 各県の山あいの地域はもちろん長野県でも米作には向かない土地が多く苦労していたようです なのでソバを始め雑穀などが一般的となり今でも郷土食となっている地域は多いです 米として年貢が納められない場合は木年貢という制度?もあり各地域においても木工品などが代表格だったりします 木曽において木年貢は写真のようにヒノキの材を納めていたそうです 土居(どい)というこの材は丸太の甘皮を挽いてから「みかん割り」と言われる切り出し方で1本あたりの長さ3尺、木口三方9寸、腹四寸なんだそうで当然ながら土居という納め方は大径木でしか取れない方法であるため深山を持つ5村のみが可能だったそうだ 他の村では、榑「くれ」と呼ばれるやや小さい径のヒノキが対象で長さ5尺2寸、木口三方四寸、腹2寸五分だったそうだ 今の木材市場では半分賭けみたいなもので丸太を落札してきて割ってみたら大外れ~~(泣)なんてこともあるみたいですがこの方法では本当に1級品?しか納める事ができないのでさぞや大変だったろうと想像できます しかも木曽全体の年貢米との差はたった1合しかなく年貢を納める必要はなかったそうだ さらに冷静に考えると当たり前ながらチェンソーなぞあるはずもなくこのような鋸で、えっちらおっちらと伐らねばならずホンと大変だったろうな~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.05.12 08:40:28
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