015469 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2022年05月21日
XML
カテゴリ:泉昌彦著述集

  親川の砂金溜めと砂金の野天掘り

 

写真参照のとおり、東京都水源林丹波山事務所に永年勤めた親川部落の故人河村銀さんが、四十五年に定年退職する前に案内してもらったとき撮影した「信玄の砂金溜め」と言い伝えのあるものをみた。

金山の遺跡にくわしいご当人は、その後間もなく他界してしまったので、ここでも唯一の生き証人を失なうところであった。

現在では、部落の人すら確実な位置を知る人はないので、筆者もまた丹波山の青年を案内して申し送っておいたのが四十八年のことで、こんな道案内でも、丸二日はつぶしてしまった。

「この金坪は、武田時代に遺られたもので、

一枚岩の川底を流れてくる砂金は重いので、

金坪に落込んで溜まる仕掛けになっています。

ほかにもあると思いますが、丹波川にある砂金溜める。

おなじものは身延の大城金山にもある。

 山腹の砂礫とともに、丹波川へ流出した自然金は、付着した不純の母岩を引きはなし、岩床を流れてくる主流が大きな岩盤の岩鼻に突き当たると、そこに、このタコツボが特ちかまえているのだが、ここに砂金溜めが造られた理由は、もう一つある。

「この穴だらげの石は、秩父古生別特有のもので、

 ごく僅かな人しか知りまぜん。武田時代には、

ここでも砂金を洗敢したということです」

 

河村さんの案内で、さらに合評のある上流の山腹に、自然の押堀場と推定できるものを見たが、以来、数回にわたって綿密に調査した結果、江を築いて水を流し、自然金を洗敢したと考えられる人工的なミゾ、石垣積みから、砂金場の間歩ではないかと見立てたのである。

岩石に穴が多いのは、酸化した二次的鉱物、つまり硫化鉄が酸化して抜けた穴である。凝灰石、石灰石などが複雑に入り組んだ接触交替鉱床で、範囲はごく限られた五百平方メートルほどしかない。

保之瀬も、親川小袖部落も、苗字や習價を辿っていくと、金掘りの末であることは、これまでにきわめてハッキリしている。

この保之瀬では砂金洗取の経験を特っていた岡部新吾さんが、役場で案内人に立ててくれた人だが、この岡部さんも間もなく病死してしまった一人である。岡部さんは、保之瀬付近にある金山のあとならすべて知っている生証人として数年前に筆者ともども間歩を辿っている。

保之瀬に多い間歩を辿るには、バス停から下に見える同部落へ下り、丹波川の橋を渡り、ここから部落の反対側の山裾にある道を山服にとると、次々に間歩に突き当たる。

と、かるく言っても、まったく人の歩かなくなった山の崖っぷちは足元も危く、ここでもひどいヤブを伐り払って、ヤブの中から間歩の口を探したのである。

橋から十分足らずで、奥行約八十メートルくらいの間歩がある。この種の間歩で、崩れて残っているものは、湧水や地下水の侵透のない山の岩盤を掘り進めたものである。

第一の間歩から、二、三とみて、その先にも二つ三つある間歩は、途中崖が崩れているため、どちらからも、ザイルを使用しないかぎり見ることは不可能だ。

二つ目の間歩から、丹波川の対岸を見ると、青梅街道の下にも二つ、間歩の口が開いていた。

 

通称「信玄の金洞」

 

丹波山村は、武田氏の黄金山によって現在の子孫を伝え、村内の古刹も、すべて武田氏の黄金山に深いつながりをもっているだけでなく、遺跡そのものが伝承とともに同村に集約されている。

標識や説明板などを建てて永久に伝えるよう本誌上で辿った遺跡の保存を奮起して望みたい。

 

丹波山本村の言い伝えにある「信玄の金洞」は、宝蔵寺の墓地の崖下に一つ、アイヌの住居跡といわれる遺跡の埋まっている押垣外(おしがいと)のキャンプ場の両岸にも二つ、坑道がそっくり残っている。

丹波川の広い河原に面しているこの間歩が、武田氏の時代に稼業されたということは、はなはだ疑問である。

明治初年以降の丹波山村民の試掘願いも、名目は水晶でも、金山が目当てであったことは明らかである。これらの間歩も散在するので正否はさしひかえておきたい。

 

  金掘りの武士団

 

これまで紹介した現地は、武田氏の黄金山といわれる諸山渓谷を隈なくアタックしたうちのホンの一部である。

黒川谷鶏冠山金山にとどまり、まだ金掘りの武に団よって金山衆の遺していった城攻めの話題、埋蔵金の秘話などあるが、これは文献を待つ読者のため、退屈しのぎのエピソードとしたい。

 

当初おことわりしたように、武田氏の請金山については、産金額とか、金山経営に関する文書は皆無で、黒川金山といえば出しものはただ一つ、塩山市下於曽の田辺佐苗家に伝えられている「田辺文書」と相場は決まっているようなものであるから、前稿に記した古文書の出現は、本誌上がはじめてだ。

文書といっても、これがまた決まり文句の簡単な印書ていどで、「武田黄金史」などという大風呂敷は、拡げたくてもネタに欠けすぎて、十枚も原稿川紙があればこと足りてしまう。

したがって、現地を歩いて謎を解くことで、手間取ってしまったわけだ。古文書が無ければ、伝説、古名、遺跡、社寺仏塔、円証、氏姓、古碑、古名、遺物などの面から謎を解く方法しかない。

丹波山村は、本来、都留郡の小山田氏の支配する郡内領であった。したがって小山田氏の代官小菅氏が、代々にわたって小菅村における館で、武州へも備えていた。

武田信玄によって、甲斐一国が完全に統一され、黄金山の開発が進められる頃は、小菅氏とは別に、武田丹波守という武田氏の分流にも見当らない不詳の武士が居たという伝承がある。

この丹波守は同郡上野原町へ通ずる小菅道にある「西原部落」に館があった。

しかし、同部落一ノ宮明神の神社に、康永元(一三四二)年十一月の銘に、地頭武田一宮殿とある。

その地のはじめての支配者によって建立される一の宮の例から、天正二(一五五三)年の神社の銘をもって断絶した武田丹波守有氏まで、数代にわたって武田氏の分流が知行していたもので、丹波と小菅は、金山衆によって支配されていたとみるべきである。

小菅の城あとは、小菅村川久保部落のちっぽけな小山にあるが、根切りの空濠や掘のあった遺跡の模様から、ミニはミニでも、れっきとした中世の山城である。

館あとも、城址の南にあるが、長くなるので、小菅氏については、またにゆずりたい。

ただ一つ、小菅氏の山城の近くに、小菅氏の菩提寺がある。この寺の「湧金山宝生寺」を、そのまま読むと、金の湧く山、宝の生まれる寺となる。同村には六か寺あったが、金竜山性寺など、いずれも黄金山にかかわりがあることは、山号からもわかる。

宝生寺はもと大菩藤峠の麗にあって、のち現在の地に還り、旧地を「古寺」といったと甲斐国志も伝えている。

してみると、小菅村にもヒノキの正月飾りをする橋立部落の数戸などから、この方面にも黄金山に関係のあった様子が判明できたが、今回は未調査のままで筆をおかざるを得ない。

とまれ、小菅遠江守信憲という城主が、文明十年に、川久保の八幡宮、熊野三社権現の建立者であるという棟札の銘と、同年の棟札は、小菅村総社の矢弓神社にもある(甲斐国志)。文明十年は一四七七年で、武田信虎の出生した明応三(一四九四)年より、十七年もさかのぼっており、黒川金山とのかかわりは、一応ないものと考えられる。

宝生寺の開山は、建長末として建長寺十八世の頃、信憲の祖、藤原重清の関創という縁起に照らすと、金の湧く山、宝の生まれる山といった山号は、黄金山より発祥したと考えられるので、大菩薩峠の裏面には、もっと古い黄金の歴史を秘められているようだ。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022年05月21日 11時39分42秒
コメント(0) | コメントを書く
[泉昌彦著述集] カテゴリの最新記事


PR


© Rakuten Group, Inc.