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Welcome  BASALA'S  BLOG

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迷う男 1~9話

迷ってばかりいる男の話。男のプロフィールやひととなりは、独自に創造して楽しんでください。
下書きやプロットの設定をせず、その日の気分で直接ブログに入力していくという書き方をとっていますので、少々表現のおかしなところがありますが、そこはご容赦を。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

男は小奇麗なレストランの前で佇んでいた。そして、いつものように迷っていた。メニューに、価格に、いや、店自体を選択することに迷っていた。
それは、男を象徴する姿だった。
あのときもこうして迷っていた。そして、ようやく訪れたチャンスを、いともあっさりと失ってしまったーー。

(一)気分が悪い
その日は朝から気分が悪かった。目覚ましが鳴り、飛び起きたが、あと5分寝ようか、起きようかと迷った。迷っている間に5分が過ぎてしまい、
「こんなことなら、寝ると決めればよかった」
と、損した気持ちになった。
歯磨きをするとき、電動歯ブラシを使うか、普通の歯ブラシを使うか迷ったが、重い電動歯ブラシを持つのがうざったかったので、普通の歯ブラシを使った。
しかし、電動歯ブラシほどきれいに磨けていないような気がして気分が悪かった。
家を出るとき、コートを着ていくかどうか迷ったが、天気が悪く、気温が低そうだったので、着ていくことにした。

起きたときから気分が悪かったので、電車では座りたいと思った。1台電車をやり過ごし、列の先頭に並んで次の電車を待った。電車がホームに滑り込んできた。すかさずドアの前に立ち、ドアが開いたと同時に左側に乗り込んだ。
「ない」
空席がなかった。右側を振り返った。
「あった」
3人分ほどあいている。踵を返したところで、若い男女がドカッと座り込んだ。いかにも“今風の若者”の二人だが、女性が男性に絡みつくように寄り添っている。3人分の座席を二人で占領しているのだが、男には注意する勇気がない。急行や準急に乗り換える大勢の客が降りるターミナル駅で座れるだろうと考えた。
男はふと気付いた。
「暑い」
寒いと思ってコートを着てきたが、飽和状態の湿気とむせかえるような熱気に、衣服の中が高温になっていることがわかった。
「ハーフコートかジャケットでよかった」
男は、重いウールのコートをうとましく思った。
ターミナル駅に到着した。乗り換え客がたくさん降りたため、座席があいた。男はすかさず座った。とにかく座りたかった。座れてほっとした。
ドアが閉まり電車が発車した。
ふと連結部に目をやると、足元のおぼつかない老婆がいる。ゆっくり、男の方に歩を進める。男はいやな予感がして顔を上げた。
「し、しまった」
〈優先座席〉に座っていた。老婆が来ないことを祈った。
しかし、その期待はもろくも打ち砕かれ、老婆が男の前に立った。男はいやな表情を見せることなく、
「どうぞ」
と老婆に言って立ち上がった。老婆は遠慮がちに辞したが、
「ありがとうございます」
と言って男の座っていた座席に座った。
男は空席を探した。
「あった」
空席を見つけ、そちらに移動しようとしたとき、ドアが開いた。ものすごい数の客が乗り込んできた。空席は瞬く間に埋まった。
「くそっ」
しかし、男は思い直した。
「あと二駅だ。乗り換えてから座れるだろう」
乗り換え駅まで二駅であることに気付いた男は、次に乗る電車に望みをつないだ。と、その刹那、電車は急ブレーキをかけて停車した。車内がざわついた。
「何だ、何があったんだ」
2、3分経過したところで、車内アナウンスがあった。
「ただいま、踏切で人身事故が発生しました。
しばらく停車します。お急ぎのところ恐れ入りますが、少々お待ちください」
男は気分が悪くなった。
「前の電車に乗っておけばよかった…」
結局、運転再開のメドが立たないということで、線路の上を一駅近く歩かされることになった。
「遅刻だ…」
男は、果てしなく深くて暗い穴に落ち込んだかのような気分に陥った。

                    〈つづく〉


(二)不幸中の幸い
人身事故を起こした電車を降り、線路を歩いて次の駅まで歩く途中、男は、先頭車両の左の先に白い布を見つけた。
「何だろう」
と思った刹那、〈人身事故〉という車内アナウンスを思い出し、白い布の下に遺体があるという想像が、男の脳裏をかすめた。
慌てて目を背けようとしたとき、一陣の風が吹き抜けた。白い布がふわっと浮き上がり、遺体の右側があらわになった。
男は、目を背けようとしていたにもかかわらず、遺体を凝視してしまった。男性だった。中年男性だったが、衣服は身に着けていないようだった。それでも、パンツは履いているようだった。コートの要る季節に、パンツのみで街を歩いていたとは考え難かった。
以前、レールと車輪に挟まったものはすべてはぎ取られるというようなことを聞いたことがあった。衣服は車輪がはぎ取ったのだろう。
それはやり過ごせたが、どうしても見過ごせないものがあった。遺体の顔が血みどろだったことだ。瞬時に目を背けたが、残像が鮮明に残った。青白い遺体に真っ赤な鮮血……、男にとって、余りにも衝撃的な光景だった。
男はようやく一つ先の駅に到着した。しかし、乗り換え駅はさらに一つ先である。駅員に聞いても、運転再開のメドは立たないということだった。
時計を見た。通常より30分近く遅れている。いますぐにでも、会社に電話を入れなければ、と携帯電話を手に取った。しかし、何度発信しても、つながらない。事故のせいかどうかはわからないが、男の周辺からの発信が集中しているのだろう。
男は携帯での連絡を諦めて、公衆電話を探した。予想以上に電話待ちの列ができていた。しかし、連絡の手段はこれしかないと、列に並んだ。結局、男に順番が回ってきたのは、20分後だった。しかも、電話に出た上司の課長は、
「きょうは、部長に対する四半期の目標の社内プレゼンだろう。事故による延着とは伝えておくが、心証には責任は持てんぞ」
と言う。確かに、部長に、社内プレゼンに怖じ気づいたと思われる可能性もなくはなく、延着の理由を知ったとしても、平社員に対して一度持ってしまった心証を翻すのは大変だということも理解できる。ところが、男にはラッキーだった。
男はすっかり、社内プレゼンのことを忘れていた。朝からどうも気分が悪いと感じていたのは意識外にあったが、社内プレゼンのせいかもしれないと思った。部長に提示できるほどの資料も企画書もできていない。もしかしたら、この事故がいい口実になるかもしれないと思った。
男はとっさに思いついた。事故による急ブレーキで、体に何らかの影響があったと言えば、会社に行かなくて済むかもしれない。
「何とか出社しようと、次の駅まで歩いてきましたが、急ブレーキのときにどうにかなったのか、どうも気分が思わしくありません。後で後遺症のようなものが出るといけませんので、このまま病院に行きます」
男は、我ながらうまい言い訳ができたと思った。
「そうか、それはいけない。保障問題にもかかわるから、検査してもらいなさい」
男は「助かった」と思った。むち打ちなどというのは外からわかるものではないし、といって、保障しなくてもいいというものでもない。とりあえず申告して、病院に連れて行ってもらおうと思った。そうすれば、半日以上がフイになり、社内プレゼンも先送りされ、もしかしたら、保障金が出るかもしれない。どこも悪くはないが、金が出るなら病院通いしてもいいし、幾ばくかの金で示談に持ち込んでもいい。この機会に、体の隅々まで検査してもらい、健康への道を歩み始めるのもいいと思えた。
朝から気分が悪かったが、これは不幸中の幸いだと思えた。一石何鳥もあるように思えたのだ。
早速駅員に申告した。
「急ブレーキの影響か、どうも気分が悪い。首か背中に異常があるのではないかと思う」
「そうですか、それはいけません。救急車を呼びますので、しばらくお待ちください」
救急車を待つ間、男はほっとしていた。朝からずっと悪かった気分も少し癒えた。会社に行かなくてもいいという事実と、病院で休むことができ、朝の睡眠不足がわずかでも解消できるのではないか、という期待があったからだ。
部長や課長の顔も脳裏をよぎったが、それよりも、朝から悪かった気分がすっかり解消されていることがうれしく、血まみれの主には申し訳なく思いながらも、事故に遭遇したことがこの上なくラッキーだと思えた。
間もなく起こるアンラッキーなことどもを想像するすべもなく、ただ、安堵の表情を浮かべる男だった。
                       〈つづく〉


(三)幸いに潜む不幸

救急車が来た。男は、自分以外にもけが人がいると思っていたが、発車直後で余りスピードが出ていなかったからか、皆、出勤することに必死なのか、男のほかに救急車を要請した者はいないようだった。
「けが人の方はどちらですか?」
救急隊員の呼びかけと、それに呼応して周囲の人間が一斉に注目した。男はたじろいだ。
『まずいな……、もう大丈夫と言おうか……。しかし、診断書をもらわないと会社には言い訳できないし、このまま会社に出るわけにはいかないし……』
どうしようか迷っている男の傍らにいた駅員が大声を上げた。
「こちらです。この方です」
周囲の目が男に注がれた。
「歩けますか? ストレッチャーを要請しますか?」
駅員に問われ、男はまた迷った。
『この状況で立って歩くと、救急車を要請するほどのことかって、みんなに思われないだろうか。しかし、ストレッチャーにのっけてもらうほどのけがじゃないことは、病院に行けばばれてしまう……、どうしよう』
迷っている男の元に救急隊員がやってきた。
「どんな症状ですか? どこか痛いですか?」
「あ……、いえ、あっ、ええ。首のあたりが……」
言った後、男は後悔した。“気分が悪い”と言えばよかったと思った。痛みなどない上に、首、と場所を限定すると、うそだとばれてしまう確率が高くなる。
「むちうちの可能性がありますね。歩けますか?」
「え、ええ」
救急隊員に付き添われて、男は救急車まで歩いた。ほんの20mくらいの距離だったが、男にとっては、何倍もの距離があるように感じた。
『あの程度のブレーキでけがするわけないさ』
と周囲の人々が思っているように思えて仕方がなかった。

やっとの思いで、男は救急車に乗り込んだ。さっきの駅員も乗り込んできた。
「症状を詳しく教えてください」
救急隊員に言われて、男は思わず口走った。
「痛みというより、気分が悪い方が……」
「痛みがなく、気分が悪い? それとも、気分は悪いが痛みもあるような気がする? どちらですか?」
「痛みは……、あるような、ないような」
「それ以外の症状は?」
「いまのところ、ないと思います」
「わかりました」
そう言うと、救急隊員は病院と交信し始めた。
男はほっとした。とりあえず病院まで行けば、何とかなると思った。
「ご気分がお悪いところ、申し訳ございませんが、2、3質問させていただきます」
付き添いの駅員が言った。
「は、はぁ」
「お客様は、何両目にお乗りになっていましたか?」
「えっと……」
男は迷った。車両によって、受ける影響が違うだろうことは予想できたが、どこに乗っていたと言ったらいいのかわからなかったし、嘘を言ってバレると、そちらの方が厄介だと思った。
「ホームに入ってきた電車に飛び乗ったので、何両目かは……」
男は我ながらうまく言い逃れができたと思った。
「乗車駅はどちらですか?」
「角間市です」
「階段のすぐそばにとまった車両にお乗りになった?」
「え、あ、まぁ」
「前寄りの階段ですか? 後ろ寄りですか?」
「う、後ろです」
「では、5両目ですね」
駅員は、ボードに挟んだ調書とおぼしき用紙に何やら書き込んでいく。
「お立ちになっていたんですね」
「そ、そうです」
「どんな状況だったかお教えください」
男はまた迷った。本当のことを言うと、けがなどするはずないとわかってしまう。少し誇張した表現をしなければいけない。が、どう誇張したらいいのか、回らぬ思考で懸命に考えた。
「えっと……、つり革につかまって、考え事をしていました。きょうは、部長への社内プレゼンがあって、そのことを考えていると、急に電車がとまって……」
「転んだり、どこかに体をぶつけたりしましたか?」
「え……、それはありませんが、つり革がひっくり返ったので、体を強くひねりました」
「腰ですか?」
「え……、首、背中、足も……」
男はかすかに感じていた。駅員が自分のことを多少なりとも疑っているということを。事務的に質問しているようだが、『うそをつけ!』と心の中でなじりながら言葉を発しているということを。
「あなたは、私の言うことが嘘だと言うんですか?」
男の口から、男自身が意図しない言葉が飛び出した。最も驚いたのは男だった。駅員はゆっくり目線を上げて男を見た。鋭い目線をにわかに温和な表情に変えて言った。
「とんでもありません。私は社への報告書をつくるのが仕事ですから、必要なことだけをお聞きしているのです」
「私は、気分が悪いと言っているんです。救急車の中でそんな矢継ぎ早の質問に答える義務があると、あなたは言うんですか?」
「大変失礼いたしました。あとの質問は診断が終わってからにします。配慮いたしませず、申し訳ございません。ただ、保障等の手続きに必要なことですので、ご協力いただきたいと思います」
「あ、……わ、わかりました」
駅員の冷静な言葉に、男は『しまった!』と思った。自分から『嘘をついています』と言っているような行為だったと自戒したが、もう遅かった。
男の発した言葉が、嘘のスパイラルにはまっていくきっかけになることに、男は気づいていなかった。

一つの嘘のために100の嘘をつく必要があることを、さらに、それには特殊な才能が要ることに、男が気づくことになるのは休息と現実逃避を夢見ていた病院でのことだった。

                       〈つづく〉

(四)不吉な予感

救急車は病院に到着した。付き添いの駅員が言った。
「私は検査が終わるまでお待ちしておりますので、お医者様に症状を忌憚なくお伝え下さり、心行くまで検査していただきますように」
男はたじろいだ。全身を検査してもらうつもりだったが、検査の挙げ句、何もなかったことがわかったら、この駅員は何と言うだろう。さっき見た、鋭い視線を思い出して背筋が冷たくなった。
「あ、え、あぁ、そうします。済みません」
男は、自分が何気なく発した“済みません”が、この駅員にどういうふうに受け取られるかを考えながら、病院のエントランスを救急隊員に促されてスルーした。
『どう言おう。ほかにけが人がいないなら、気分が悪いというだけで救急車を要請したのは行き過ぎと取られるのは必至で、ややもすると犯罪絡みの事情があるのではないかと詮索されて、痛くもない腹を探られかねない。
面倒くさいことにならないようにするには……』
男は必死にストーリーを考えた。会社に言い訳ができ、病院に疑われず、駅員を納得させるストーリーを。
幾ら考えても、整合性のとれるストーリーは男には思いつかなかった。知識がなさ過ぎた。けがやその症状、それに対する傷病としての保障の有無など、それまでそんなことに関係せずに生活してきた男にとってすべての用件を満たす言い訳をする自信は全くと言っていいほどなかった。しかし、言い訳のときが刻々とやってくる。
男は反芻した。これまでに自分が発した言葉を思い返した。「気分が悪い」「体をひねった」「首が痛いような気がする」……。男はひらめいた。
『もしも、物理的、医学的な裏付けが得られないので、明確な診断が下せない、というような、際どくもあいまいな判断だったときは、日頃のハードワークを理由にしよう。事故の衝撃により、不安定な精神状態をさらに不安定にさせ、常日頃持っていた精神面の不安定を助長させたと。幸いにというか……、自分に運よく、物理的、医学的な根拠が見つかったときは、極力浮かれた言動を避け、清廉な雰囲気を前面に押し出し、医者にも駅員にも悪印象を持たれないように留意しながら手八丁口八丁で何とか切り抜けよう』と。
男はそれまで、「手八丁口八丁」というのは、誠実さがなく、嘘をつくことをいとわず、その場その場で言い逃れをする人間の行為を表した言葉だと思っていた。しかし、切羽詰まった状況になると、少々理解のベクトルが変わるものだと思った。自分もこれで逃れなければならない局面に接していることがおぼろけながらわかっていた。

しかし男は、「手八丁口八丁」の本当の意味をこの後知ることになる。

                        〈つづく〉


(五)口八丁への関門

看護師に促されて男は診察室に入った。そこには、いかにも老獪な医者がいた。
「大変でしたね。お仕事は大丈夫ですか?」
「あ、は、はぁ、会社には連絡しました。上司も了承してくれました」
「そうですか。気分が悪いのに、会社への連絡を欠かさないとは、律儀で正直な方ですね。なのに運が悪い。同じ電車に乗り合わせていた方の中で、あなたのほかに異常を訴えられた方はいないそうですね。飛行機事故で500人中1人だけ助かったというような事例の、ちょうど逆ということでしょうか。神や仏の存在を疑ってしまいますよね」
男は息をのんだ。何と饒舌で、人(後ろめたさのある)の心をえぐるような語彙を連発するのかと、恐れすら感じた。
「え、えぇ、そう思います。自分でも不運だと感じています」
男は、この医者の誘導尋問には乗るまいと思っていた。しかし自信はなかった。本当に気の毒そうな顔をして、〈神や仏の存在を疑ってしまいますよね〉と言われると、『済みません! 神や仏に顔向けのできないような嘘をついています』と懺悔してしまうのではないかという衝動にかられている自分を感じていたからだ。
「で、どこがどうか、遠慮なく言ってみてください。事故のショックで、あり得ないような体の反応があるかもしれません。そのようなことは、こちらとしても十分承知していますから」
〈あり得ないような体の反応〉とはどういうものか……、男は考えながらも、ある意味で自分の言ったことの中で整合性のとれないことは〈事故のショック〉ととらえてもらえるのではないかと、わずかながら安堵した。
「気分が悪いんです」
「いつからですか?」
「え?」
「気分が悪いことに、いつ気づきました?」
男は迷った。駅員には、停車してしまった電車から降りて次の駅に歩いてくる間と言ったが、救急隊員にはどう言っただろうか。上司にはどう言ったんだろう……。記憶をたどろうとしつつ、何気なくふと上げた目線の先に、医者のにこやかな表情なのに、異様に鋭い視線を向けているのを見て、男は完全に思考が停止したのを感じた。
「いつだったか……」
「事故直後ですか? それとも次の駅まで歩いてから?歩いている間かな?」
「あ……、歩いている途中だったと……」
「歩いているとき、何を考えていましたか?」
「か、会社に行かないと、と……」
「何か重要な業務があったのですか?」
「きょうは、部長への社内プレゼンがあって……」
「それは大変でしたね。検査にはそう時間がかかりません。所見では、頸椎ねんざだと思われます。簡単な検査で終わりますから、すぐに出社して、部長さんへの社内プレゼンを成功させてください」
男は焦った。それでは、“骨折り損のくたびれもうけ”以外の何ものでもない。きょう一日がつぶれなければ意味がない。
「え、け、けい…何とかって、見ただけでわかるんですか?気分が悪いって言っているのに……、付き添いの駅員さんは気の済むように検査してもらえって言ってくれましたよ。見た目だけで済まそうというんですか?」
声を荒げてしまったことに、男は後悔しながらも、血圧と心拍数が上がり、自制できない自分をもてあましていた。
「もちろんレントゲンは撮りますよ。念のため、脳のCTも撮っておきましょう。それ以外に、ご希望の検査はありますか?」
「あ……」
男は言葉に詰まった。どんな検査を申請したら、整合性が取れ、健康への道を歩み始められるのかと迷ったのだ。
しかしそれは、徒労に過ぎなかった。幾ら考えても医学的知識のない男に、答えが導き出せるはずがなかった。しかし、何かを言うしかなかった。
「な、内臓に問題はないんですか?」
男の切羽詰まった表情を目の前に、老獪な医者が表情を緩めて言った。
「急ブレーキで、内臓が異常を来すということは考え難いですが、そうおっしゃる理由があるなら、お教えください」
男の心の中に“後悔”の二文字が浮かんだ。〈言わなければよかった〉と思ったときにはもう遅い、ということだと悟った。
「い、いえ、気分が悪いので、胃腸にも何か影響があったのかと単純に思っただけです」
「え、気分が悪いというのは、胃腸ですか?」
男に表情がなくなった。医者の意外な質問に、思考が停止した。
「あ、い、いえ……」
「では、頭痛は?」
「べ、べつに……」
男は、医者の目が鋭くなったのを感じた。男は焦って言った。
「検査はしてもらえないんですか?」
医者は余裕のある笑顔で言った。
「もちろん検査します。では、検査室に行きましょうか」
男は途方もない後悔が心を覆っていくのを感じた。

検査で何か異常が出るはずがなかった。痛みも苦しみもないのに、レントゲンやCTに何かが写るとは思えるはずもないと思えた。さらには、医者の視線に、駅員と同じ匂いを感じた。丁寧で、親切な口調であるにもかかわらず、こちらを蔑み、疑い、嘘を見抜こうとする視線の鋭さは、うしろめたい男には、凶器に匹敵するものだった。

男は検査室に足を踏み入れた。するとそこには、臨床検査技師と言われる人物がいた。レントゲンやCTのプロである。判断は医者がするとしても、毎日多くの撮影をし、症状を把握し、病名を見抜いているプロである。
電車事故の内容と、男が訴える症状と、写った画像を分析すれば、自分が嘘を言っていることが確定的になるのにそう時間がかからないことは予想できた。しかし、そこで諦めるわけにはいかなかった。少しでも時間を引っ張って、出社しなくてもいい状況をつくらないといけなかったからだ。

男は、隣室からマイクを通して出される臨床検査技師の指示を聞きながら、どう言えば嘘がバレずに済むかを必死に考えた。このままでは、口八丁の実力を発揮する機会を得られぬまま、嘘つきのレッテルを貼られることは明白だと感じられた。

このときはまだ、男の心の中に、『ここを何とかやり過ごせば、何とかなる』という妄想が、わずかながらもあったようだった。

                      〈つづく〉

(六)笑顔の裏側で

分厚い壁の向こうの臨床検査技師の言葉を聞きながら、男は先ほどの出来事を反芻していた。
『どうしてあの医者は、ほかに異常を訴えた人間がいないことを知っていたんだろう。……きっと、あの駅員が事細かに告げ口したに違いない。“あのエセ患者は会社に行きたくないから、口実を探すのに必死だ”とか、 “保障金目当てだから、鉄道事故で保障される範囲内の訴えをつぶしてくれ”とか、“後々ゴネ得をたくらんでいるかもしれないから、医学的な裏付けを与えないようにしてくれ”といったような因果をあの医者に含めたに違いない、と、根拠がないながらも、確信に似た強い感情を抱いた。
『あの駅員は、鼻持ちならない。気をつけないと』
と男は気を引き締めた。

「はい、お疲れさまでした。撮影は終わりました」
臨床検査技師の声で男は我に返った。駅員と医者は敵であると感じた。臨床検査技師も敵の可能性はあるものの、表情を見ると優し気に感じる。自分を疑っていないのではないかと、ふと思った。
「ありがとうございました」
そう言った刹那、男はある疑念にさいなまれた。『撮影時間が短かった。適当に処理したのではないだろうか。脳に異常があると仮定した検査なら、慎重にするはずだ。最初から、脳への異常などないと思いながら検査したのではないだろうか。いや、もしかしたら、撮影などしなかったのかもしれない』
「先生……」
そう言ったなり、何も言わない男を訝しがった臨床検査技師がマイクを通して言った。
「何か不都合がありましたか?」
男はしばし言葉を失った。物理的な不都合も、肉体的な不具合もなく、健康であるのが当たり前という状況にありながら、いまやってもらった検査以上のことをしてもらうとしたら、どんなアピールがあるだろうかと考えた。

「この検査で何がわかったのですか?」
とっさの出来事とはいえ、男は、自分が発した言葉に驚いた。
「え……、脳の血管異常や外傷の有無、血栓などの脳関係と、循環器系の異常がわかります。それ以外に何か気になることがありますか?」
医師が言った。
「え、いえ……」

口ごもった男の口から、神のお告げのように言葉があふれた。「そうですか。私は全く問題のない体なのですね。よかった。気分が悪いとか、体の所々が痛いと感じたのは私の勝手な感覚だったのでしょう。こういう事故の経験の豊富な、優秀なお医者様がご指導してくださるのですから、心配がないはずだ。待てよ……、そんな万全な状況であるにもかかわらず、私の体がおかしくなったときは
どうなるのだろう。事故では何もなかったと、あたかも嘘つきのように言われ、体が不調だと言っているのに疑いの眼差して見られるばかり、検査というと、される側が内容すら理解も
できない状況で……』

そこまで言うと、老獪な医者の笑顔が引きつった。

男がすかさず言った。
「私は、事故が私の体に悪影響を与えたと感じています。相違点があるなら、事故が私の体に全く悪影響がなかったということを証明していただきたい」

男の気持ちが楽になった。それは、医師の顔にわずかながら不穏な雰囲気が漂ったからだった。しかしその後すぐさま、男の瞳に緊張が走った。
「お疲れさまでした」
そう言いながら近づいてくる駅員が、目の端に映ったからだった。駅員は、例のごとくにこやかだった。本心を見せない、冷たい笑顔を浮かべながら、近づいてきた。
                      〈つづく〉


(七)アリ地獄の恐怖

駅員のにこやかな顔が男の視界を覆った。
「気になる症状は、すべて先生にお話いただけましたか?」
男を見下ろす駅員の顔は、棘を隠した植物のように静かで、なのにそら恐ろしい雰囲気を漂わせていた。
「症状って……、気分が悪いと言っているのに、頭部レントゲンとCTだけなんて、おかしくないですか?」
男は、何かを言わなければならないと思った。言葉を発しなければ、この場ですべてが終わり、チャンチャン、ということになると察知した。
事故に遭ったこと、次の駅まで歩いたり、救急車に乗ったりしたこと、病院に来たこと、老獪な医者の言葉攻めに遇って、ドギマギしたことすべてがフイになることが口惜しかった。
それとは別次元だが、これがなければ無理などしなかった“出社したくない”という理由も男の行動を後押ししていた。
「事故と気分が悪いとの因果関係を考えますと、急ブレーキによる頸部から頭部への衝撃が原因と思われます。それは、おわかりですね?」
男は迷った。〈はい〉と言ってしまっては、駅員に論破されそうな気がする。しかし、〈いいえ〉と言ったとしてもそれが通用するとは到底思えなかった。なぜなら、駅員の論拠の方が正しいと思えたし、根拠も明確だと感じた。
「わ、わかります」
「それ以外に、どこをどう検査してほしいとおっしゃるのでしょうか。どうか、忌憚なくおっしゃってください」
“忌憚なく”と言った駅員の表情が、より引き締まったのを男は見ていた。男は完全に怖じ気づいていた。仕方ないことだ。「具合が悪い」ということ自体が架空の事実で、それにまつわることを言うのは空想に過ぎない。言葉を発すれば発するほど、墓穴を掘ることになることは理解できた。
「わ、私は専門的なことはわかりません。でも、気分が悪いことは間違いない」
男はそう言いながら、その主張が余りにも無根拠で、意味のない言動であると思えた。が、後には引けない。
すると駅員は、表情を緩めて言った。
「わかりました。では、しばらくこの病院でお休みください。体を休めれば、体調も戻られるでしょう」
「そ、それは、私が気分が悪いと言っているのは、妄想だとでもおっしゃっているんですか?」
男は声を荒らげながら、不安感の混じっている高い声に “まずい”と我ながら驚いていた。
「お客様、お気を悪くなさらないでください。我々の業界ではお客様が訴えられる症状についての原因の分析は長い時間をかけて蓄積されたデータがありますし、その情報はお医者様と共有しています。事故に遇った方の症状をお聞きした時点で病名がわかるほど系統立った診療分野でして、初めて事故をご経験なさったお客様がパニック状態でいらしたとしても、その対応方法も我々は熟知しているのです」
「あ、あなたは、私がパニックに陥っていて、おかしなことを言っているとおっしゃるんですか?」
「パニックに陥っていらっしゃるようではありませんが……。失礼ながら、気分が悪い理由は精神的なものではないかと。出社したくないなら、ここで夜までいらしていただいて構わないように手配いたします」
男は言葉を失った。この駅員はすべてを見通していると思った。
しかし、男は、駅員が発してくれた配慮のある言葉にそのまま従っていいものかを迷った。ここまでやったのだから何らかの特典を手にしたいという気持ちもあったし、明らかに自分よりも立場が上の駅員を打ち負かしたいという気持ちもあった。
だが、自分の気持ちを見通している駅員に対して何をどうすれば一発逆転ホームランになるのか、皆目検討がつかなかった。
「わ、私は例外だ」
男は自分の発した言葉に驚いた。意図せずに口をついた言葉だった。
「これまでの例にないこともあるかもしれない」
言った自分が恐ろしくなった。アリ地獄にはまった瞬間のもがくアリが頭に浮かんだ。
「経過観察しましょう」
あの医者だった。いつの間にか、男の傍らに来ていた。「症状が急転するようなときにも対処できるようご入院ください」
「に、入院?」
男は意外な展開にとまどっていた。きょう、出社できなければ、それでいいと思っていたし、やってもらいたいのは検査だった。入院となると、会社や、部長への対応が大きく変わる。
「入院の患者さんが移動する。ナースセンター横の個室を準備してくれ」
医者がポケットからPHSを取り出して、どこかと交信した。男は脱力した。もう抗えないと思った。

「会社とご家族に連絡させていただきます。この用紙に連絡先をご記入ください」
そう言ってボードに挟んだ用紙とボールペンを差し出す駅員の顔を見る力も男にはなかった。
「おっしゃっていただければ、私が書きますが」

男は暗い穴の中にいた。これからの展開が全く読めず、会社の反応、上司の反応、部長の心証……。
激しい脱力感と虚無感に襲われながら、心の片隅で「少し眠れる」ことに、わずかの魅力を感じていた。

しかしその「魅力」さえもが、粉々に打ち砕かれるまでにそう時間を要さなかった。

                     〈つづく〉

(八)看護師の瞳

男は無機質な病室の天井を見詰めるともなく見詰めていた。
『厄介だ……』
ため息とともに、声にもならない声が男の口から漏れた。その声に驚いて、男は自らの言葉の意味を探った。いろいろな厄介が思い浮かんだ。
“部長へのプレゼン”“課長への言い訳”“駅員との対決”……、どれも勝利の可能性が薄いように思える。落胆の感情とともに、朝からの出来事を思い返した。
寝坊をし損ねて気分が悪く、座っていきたくて電車を1本遅らせ、ようやく座れたと思ったら老婆がそれを苛み、乗換駅まで立って我慢しようと思ったら人身事故で……。致し方なく遅刻を伝えるために電話したら、すっかり忘れていた部長への社内プレゼンのことを告げられて気持ちが萎え、勢いに任せて申告した体調の不具合が抜き差しならぬ状態に自分を追いやってしまったのだ。
迷いながら選択してきた事柄のほとんどが、自分の思いと逆に向かってしまう運命の理不尽を感じた。

そういえば、生まれてこの方、思いと逆に展開する人生だったと思い至った。例えば、病気を治そうと町医者を訪ねたら、誤診で病気が治らないばかりか、スリッパの洗浄不備で水虫を移されてしまったとか、好きな女の子ができそうになると、友達が先に告白してしまったとか、好きな女の子が近づいてきたら、友達のことを好きだから伝えてほしいと頼まれたりとか、何時間も待って話題の福袋を買ったら、全く使えるもの、欲しいものがなくて、親に無償進呈してしまったり……。

〈コンコン〉
ノックの音がした。
男は我に返った。ナースが入ってきて、幾つかの検査や指示をするのだろうと想像した。それが終わったら、少しの睡眠をもらおうと男は思った。いつもの通勤より神経も使ったし、体力的にも疲れていたと実感していた。
開いたドアの隙間からは、若くて、かわいくて、匂い立つようなナースの姿が見えた。
「失礼します」
入ってきたナースは、男が想像する“ナース”に見るような「清浄」「清廉」「誠実」といった雰囲気ではなく、「色気」が漂う女性だった。

男は、気分の高揚を感じ取った。卒がない駅員や、老獪な医者が自分に与えた緊張感とはまた違った緊張感を感じながら、しかし、すぐそばにいるそのナースに、猛烈な緊張感を感じる自分を意識しながら、男は言った。
「私は気分が悪いんだ」
……言った言葉尻から、男は自分の異常に気づいていた。驚いて振り返るナースの視線が男の瞳につき刺さった。
アリ地獄から抜け出そうと思っていたはずが、さらに逃れられそうにない、急激なすり鉢状の深い穴にはまっていく自分を認識したのだ。

振り返った看護師の目尻が緩んだときには、男の、それまでの気持ちはすべて吹き飛んでいた。しかしそれは、しばらくの安堵と快楽でしかなかったと、後に彼は知ることになる。

                     〈つづく〉


(九)看護師の瞳2

男は、ナースの表情が緩んだことに、わずかな安堵を感じた。『この看護師は、自分の入院のいきさつを知らないのかもしれない』と思った。それならば、こんなかわいい看護師に見守られて、心置きなく眠れることがこの上なく幸せだと思えた。

「お熱と血圧を測らせてください」
そう言うと、ナースは体温計を男に渡し、男の腕に血圧計の腕帯をはめた。男は左脇に体温計を挟み、左腕に巻かれた腕帯に、どんどん圧力がかかっていくのを感じていた。
〈シュポシュポシュポ/ドクドクドク〉
こんな色気のある看護師に、血圧を測られるということだけでも血圧が上がるのに、嘘をついているというやましさや、鉄道会社や会社からの反応がとてつもないストレスであることは間違いなく、それが血圧には確実に、自覚はないが熱にもある程度反映されると確信していた。
「はい、ありがとうございます」
看護師が男から体温計を回収した。
「問題ありませんね」
その言葉を聞いて、男は焦った。何かあってもらわねばますます疑いの目を向けられる。日頃の不節制の成果がここで出てくれなければ意味がない。
「とても気分が悪いんですよ」
男の声に振り返った看護婦の目には、明らかな疑念が見てとれた。男の中で、何かが弾けた。
「何ですか、その目は」
男は、言った自分に激しく後悔した。しかももうとまらなかった。
「私のことを知っているんですか?」

男の声に反応した看護婦は、ゆっくり男のベッドに近づいてきた。
                    〈つづく〉








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