カテゴリ:仏教の2500年
基督(きりすと)教はどこかで「我は在るなり」と分極をおこせばよいわけです。神と人とは結局はどこかで分離する。だからこそ絶対唯一なる神がいつまでも残ります。しかし禅はそうはしません。神も人も青苔も水音も、たちまち一緒になって、またそのそれぞれの「元々の時」に戻ってくる方法をもっています。これが道元の「有時」です。禅というのは仏陀の精神を直截に見ようとするもので、何を見ようとしているかというと、「般若」と「大悲」です。この「超越的な智恵」である般若によって、禅者は事物や現象の因果を超えるために修行をするのです。そうやってやっと事物や現象にとらわれなくなったあるとき、ふっと大悲が自在に作用する。その大悲の作用は禅仏教では無生物にさえ及ぶのです。これを説明するのが、四諦(苦諦:くたい・集諦:じったい・滅諦:めったい・道諦:どうたい)で龍樹も道元も、大拙も観念論と唯物論の桎梏(しっこく)を超越する哲学として禅仏教をとらえています。
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最終更新日
2012年07月20日 06時39分20秒
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