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私の人生論 (思考が運命になる)

私の人生論 (思考が運命になる)

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2023年10月25日
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カテゴリ:認識の歩み


唐末に軍閥や反乱勢力の争いの焦点となった
政治・経済の中心地は,
もはや長安でも洛陽でもなく,
黄河と大運河という交通大動脈のまじわる
汴州(ベんしゅう)の周辺です。

節度使(せつどし)朱全忠(しゅぜんちゅう:852~912)は
この要衝(ようしょう)に拠(よ)って唐朝を倒し,
後梁王朝(こうりよう:907~923)をたてました。

のち約50年間という短い期間に,
中央では5王朝,地方では10あまりの王国が
輿亡しました(五代十国)。

下剋上(げこくじょう)の勢いは中央でも地方でも進み,
唐代まで政治や社会を左右していた貴族は姿を消した。

五代の中央政権として最後に登場した後周では,
節度使の趙匡胤(ちょうきょういん:太祖)が
宋(北宋)王朝をたてました。

太祖は着実に国内の続一と集権制を強化し,
富国強兵をめざして革新策を断行しました。

節度使をやめ,すべての軍隊を皇帝に直属させる一方,
民事・軍事・財務にわたり文臣を重く用いました。

また官僚制を充実させる目的で科挙制をととのえ,
最終試験を皇帝がみずから課すこと(殿試:でんし)で
官僚の人事権を天子がにぎり,
旧貴族の復活の道を防ぎました。

つぎの太宗(たいそう:位976~997)のときに統一がなり,
動乱をのりこえた支那は,
漢から唐までのそれをはるかにしのぐ強固なものとなり,
もはや五代のような分裂は
のちの王朝には二度と生じません。





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最終更新日  2023年10月25日 05時00分09秒
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