カテゴリ:認識の歩み
唐末に軍閥や反乱勢力の争いの焦点となった 政治・経済の中心地は, もはや長安でも洛陽でもなく, 黄河と大運河という交通大動脈のまじわる 汴州(ベんしゅう)の周辺です。 節度使(せつどし)朱全忠(しゅぜんちゅう:852~912)は この要衝(ようしょう)に拠(よ)って唐朝を倒し, 後梁王朝(こうりよう:907~923)をたてました。 のち約50年間という短い期間に, 中央では5王朝,地方では10あまりの王国が 輿亡しました(五代十国)。 下剋上(げこくじょう)の勢いは中央でも地方でも進み, 唐代まで政治や社会を左右していた貴族は姿を消した。 五代の中央政権として最後に登場した後周では, 節度使の趙匡胤(ちょうきょういん:太祖)が 宋(北宋)王朝をたてました。 太祖は着実に国内の続一と集権制を強化し, 富国強兵をめざして革新策を断行しました。 節度使をやめ,すべての軍隊を皇帝に直属させる一方, 民事・軍事・財務にわたり文臣を重く用いました。 また官僚制を充実させる目的で科挙制をととのえ, 最終試験を皇帝がみずから課すこと(殿試:でんし)で 官僚の人事権を天子がにぎり, 旧貴族の復活の道を防ぎました。 つぎの太宗(たいそう:位976~997)のときに統一がなり, 動乱をのりこえた支那は, 漢から唐までのそれをはるかにしのぐ強固なものとなり, もはや五代のような分裂は のちの王朝には二度と生じません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年10月25日 05時00分09秒
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