2024/03/18(月)05:00
モンゴルの招諭
モンゴル皇帝フビライ・ハーンは、
高麗国王元宗を降伏させ、これを朝貢国とし、
一一六六年、フビライは軍事力による征服の
威嚇をこめた日本招諭のための使者の派遣を
高麗に強要しました。
いったんは
「風涛(ふうとう)の険阻(けんそ)」を理由に辞退した高麗も、
フビライの強圧には抗しえず、
一二六八年(文永五)に高麗の使者は大宰府に到着しました。
これに対し、関東の幕府では、
一四歳の若さで父時頼のあと
得宗となった時宗(ときむね)が、
宿老北条政村(まさむら)を執権に立てて
自らは連署となり、
金沢実時と安達泰盛(あだちやすもり)が
これを支える体制をとっていました。
一二七三年二月、南宋の襄陽が陥落し、
四月には三別抄(朝鮮では
モンゴルに降伏した高麗王室の態度を不満として、
一二七〇年、三別抄が反乱を起こし、
モンゴル軍の乱暴に苦しめられていた
朝鮮南部各地の農民の支掲をえて、
済州島(さいしゆう)を拠点に
モンゴル軍・高麗軍と戦った)も敗れ、
済州島すなわち耶羅(たんら)もモンゴル軍の手におちました。