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私の人生論 (思考が運命になる)

私の人生論 (思考が運命になる)

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2024年04月18日
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カテゴリ:認識の歩み


中興事業に協力した武士の多くは、
幕府に対して不平を抱く人々です。

彼らは幕府を倒すことによって、
自己の地位を安定させ、
さらにそれがよりよくなることを期待したので。

天皇の理想を理解し、
それに協力しょうとしたわけではあえいません。

期待に反して恩賞が少かったことに不平をもらし、
訴訟の裁決がおくれることに
不満の声をあげたのは、このような人々です。

彼らはしだいに中興政権に望みを失い、
彼らの要望をみたしてくれる人の出現を望みます。

彼らの不平を利用し、
それを結集したのが足利尊氏です。

足利氏は義家の第三子
義国から出た源氏の名門で、
下野国足利荘に住んで足利氏を称し、
高氏の代には上総・三河両国の守護として
重きをなしていました。

足利氏は、早くから
北条氏に代って政権を握ろうとする
野心をもっていたといわれ、
それが高氏のときに実現します。

建武中興の成功は、
幕府に対する彼の寝返りによるもので、
天皇は恩賞を授け、従三位に叙し、
参議に任じ、武蔵守となし、
天皇の譲尊治の一字を与えて
尊氏と名乗らせたほどです。

したがってその勢威には、
断然他を圧するものがありました。

これに対抗するものは、
征夷大将軍護良親王と新田義貞でした。

尊氏と両者との抗争は、
まず親王と尊氏との対立となって表面に現われ、
これは尊氏の勝利に帰し、
親王は鎌倉に幽閉されました。

たまたま北条高時の遺子時行が
中先代(なかせんだい)の乱をおこし、
鎌倉をおとしいれたので、
直義は親王を殺して三河に逃れ、
これを京都に報じました。





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最終更新日  2024年04月18日 05時10分06秒
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