戦争放棄
《一八五三年(嘉永六年)のペリー提督訪日以来、 国際政治は日本の法制度と政治制度の発展に 決定的な役割を果して来た。 明治時代(一八六九―-一九一二)の法制上、 憲法上の改革は、大部分 欧米列強が日本に押しつけた〝不平等条約″に、 早く結着をつけることを目的としていた。 二十世紀中葉にいたり、マッカーサーと冷戦のために、 外交上の配慮が再び日本における憲法上の展開を支配した。 日本の新憲法は冷戦の落し子である。 それはおそらく冷戦の犠牲者ともなり得るはずである》 そして、昭和三十七年(一九六二)九月にいたって、 マクネリー教授は三度警告した。 《もし戦争放棄が、単に日本政府による政策の宣言か、 あるいは単に憲法前文に繰入れられた 政治的理想の表明であったとすれば、 おそらくこれほどの法律的論議を呼ぶことはなかったであろう。 しかし、それは憲法本文の条項に挿入され、 日本政府と国民を拘束する誓約と看倣されている。 この条項が現在憲法解釈上 きわめて困難で議論の多い問題となっているのは、 驚くにあたらないのである》「一九四五年憲法―その拘束」 江藤淳 文藝春秋