地球人スピリット・ジャーナル1.0

2009/02/09(月)23:26

神・人間及び人間の幸福に関する短論文   スピノザ

マルチチュード(108)

 「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」  スピノザ 畠中尚志 訳 1954 2005年リクエスト復刊  スピノザが死んで200年ちかくをへて、古くから噂されていた彼の未刊の論文がオランダで発見された。なぜか遺稿集に含まれなかったこの論文はオランダ語写本(他の著作はすべてラテン語)だけが現存する。この発見はスピノザの形而上学の由来について、未解消の厄介な議論を生んだ。「神秘的」と 形容する者さえいるアルカイックな表現の中には、ユダヤ教の残響なども聞き取れ、近世的でない起源がうかがえる。小エチカと呼ばれるが、テキスト成立の時代もいまだに確定されず、『知性改善論』との前後論争が進行中。(ある書評より)  とのことである。デカルトの問題意識の直系的後継者と言われるスピノザだが、当時のユダヤ社会から追放され、短い45年の間に著わされた論文も極少数である。その彼にして、約200年後に発見された論文集というのだから、その時、その時の、それらの出来事にたずさわてきた人々には驚きの連続であったに違いない。  もともとこの岩波文庫も昭和29年、私が生まれた年に発行されている。それから50年も経過してから、私は幾分かでも新しい考え方や生き方に触れたいと、ネットや図書館で検索し続けているのに、このような年代ものの思想に回帰せざるを得ない、ということは、不思議でもあり、ちょっと悔しくもある。しかし、時代を超えて、愛され、研究されているものには、それなりに何かがあるに違いない。この本はリバイバル投票によって再刊が決定し2005年に復刊している。すごい。  ぺらぺらとめくっただけで読んだことにはならないが、長文だけど、一箇所だけ抜粋しておく。なお本文の漢字は旧漢字を多く使っている。  第二十三章 精神の不滅について  精神とは何であるか、又精神の変化と持続はどこから発生するかを一応注意深く考察するなら、精神が可滅的であるか不滅的であるかは容易に判明するであらう。  我々は先にかう述べた。精神は思惟するものの中にある観念であって、自然の中にある事物の現実的存在から発生する、と。この帰結として、事物の持続と変化に応じて精神の持続と変化も生じねばならぬといふことになる。尚、その際我々の認めたところに依れば、精神と身体とーー自らがその観念であるところの身体とーー合一することも出来るし、又神とーー自らが存在するにも理解されるにも欠くべからざるものであるところの神とーー合一することも出来る。  これからして、我々は容易に次のことを知り得る。一、若し精神が身体とのみ合一するとしたら、身体が滅びる場合は精神も亦滅びなければならぬ。何故なら、自己の愛の基礎たる身体を失ふ以上、精神も亦それと共に滅びざるを得ないのだから。しかし、二、若し精神が、不変であり且つ不変に止まるところの他の或る物と合一するとしたら、精神も亦前と反対に不変に止まらねばならぬ。といふのは、この場合精神が滅びることは何に依って可能であらうか。自分自身に依って可能でない。何となれば、それは未だ存在しなかった時に自分自身に依って存在しはじめることが出来なかったやうに、丁度そのやうに、それは又存在している現在(自分自身で)変化したり滅びたりすることは出来ないからである。  従って、ひとり精神の存在の原因であるところのものがまた(若し精神が滅びるとしたら)精神の非存在の原因でなければならぬ。即ちさうしたもの自身が変化し消滅することに依ってである(がこれはあり得ないことである)。 p194

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る