TAO 永遠の大河 <1>
「TAO 永遠の大河」<1>OSHO老子を語るOSHO, スワミ・プレム・プラブッダ 1979/05 めるくま-る 単行本 603pVol.2 No.422 ★★★★☆ 玉川信明は、「OSHO、禅を語る」リストの中に、この「TAO永遠の大河」シリーズ4冊を入れている。実はこの禅リストを修了してから「和尚、性愛を語る」や「OSHOの超宗教的世界」に入りたかったのだが、この「TAO」シリーズを読むのが億劫で、なかなか「禅を語る」シリーズを閉じることができないでいた。 そもそもにおいて、禅の流れのなかで、この老子をテーマとした本を読みこむと言うことに、どうしてもうまく入れなかったのだ。玉川の選出センスのミス、ということもできるだろうし、逆に、玉川と私のセンスのズレ、ということもできるだろう。いずれにしてもようやくこの本を手にする気になった。 もっとも、この本で、玉川OSHO禅リストが終了したとしても、「OSHO最後の講話録・ZENシリーズ」だとか、「OSHO ZEN TAROT 出典リスト」が読了となっていないのだから、いつになったらOSHO-ZENマンダラから脱却できるかはさだかではない。ここでは、OSHO-ZENというより、玉川本・全四冊からの脱却を急ぐという意味で、このTAOをパラパラとめくることになった。 この本1979年にでた段階では、ラジ「ネ」-シとなっている。なんとも年代を感じる、日本におけるOshoの初期的出版本のひとつである。だから、おのずと、過去において、この本をなんども読んでいる。当時はあまり翻訳本が多くなかったので、繰り返し読んだ記憶がある。だから、まぁ、今回、あえてまた読む、という気持ちになれなかった、というのが正直なところだ。 しかし、何度読んでも、どこか前と違ったところを発見したり、違った意味にであったりするのが、Osho本の特徴でもある。なにはともあれパラパラとめくってみた。5番目の質問----”カルロス・カスタネーダ”のグル、ドン・ファンは悟ったマスターでしょうか?”もし誰かドン・ファンのような人がいたとしたら、彼は悟っているだろう。彼は仏陀か老子のような人であっただろう。だが、ドン・ファンというような人は誰もいない。カルロス・カスタネーダの本は99パーセント、フィクションだ。ビューティフルだ。芸術的だ。ちょうどサイエンス・フィクションというのがあるのと同じように、スピリチュアル・フィクションというものもある。三流のスピリチュアル・フィクションもあれば、一流品もある。もし三流が読みたければ、ロブサン・ランパを読むがいい(笑)。もし一流品を読みたければカルロス・カスタネーダを読んでごらん。彼はひとりの大名人だ。フィクションのね。 p357 ロブサン・ランパは、当ブログの読書リストの近くでニアミスを起こすが、常に自然に遠ざかっていく(笑)。カルロス・カスタネダのドン・ファン・シリーズについては、当ブログの中で、なんどか、誰かが自分の著作の中で触れているところを引用してきた。私自身もその本の大部分を持っている。だけど、こちらもまた当ブログの中でふたたび読む気にはなかなかなれなかった。 なんでかな、と思ったので、よくよく考えてみると、とにかくあのシリーズは長い。読みきるまでに浮気な私は、次の本に手をつけてしまう。あの本はもっともっとコンパクトで十分なはずだ。増量剤が多すぎる。そしてもうひとつ、私にはあの本をフィクションと決めつける材料はないが、小説嫌いを自称している通り、どうも物語、つくり話にはあくびがでてしまう傾向があるのだ。ただし、私が99パーセントフィクションだと言うのは、そこに1パーセントの真実があるからだ。あちらこちらに隠れている。それは見つけ出さなくてはなるまい。そして、それはフィクションとして読むにさえ悪くない。p357 そして、もうひとつ、薬物の問題がある。カルロスは誰かしら何かを知っている存在と邂逅し、そして、LSDその他のドラッグの力を借りて、その小さな真実を架空の世界へと投影したのだ。そうやって、彼のフィクション全体が生み出された。p359 この本、老子をテーマとしているので、実に感動的な場面がちりばめられてもいるが、かならずしも老子に限っているわけではない。老子を切り口としたOshoワールドへの招待状だ。この本を玉川がOSHO-ZENリストに入れたのも、わからないでもないが、「OSHOの超宗教的世界」にもいれている。カテゴリーエラー本とも言えるが、もともと老子はユニークな存在であって、それ自体が一つのカテゴリーとなる、実に個性的な存在であるともいえる。<2>につづく