地球人スピリット・ジャーナル1.0

2009/03/31(火)13:18

瞑想と悟り ダライ・ラマ14世

アガルタ(108)

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく  「瞑想と悟り」 チベット仏教の教え  ダライ・ラマ14世著 柴田裕之 1997/7 NHK出版  原著 THE WAY TO FREEDOM Core Teaching of Tibetan Buddism 1995  ダライ・ラマの本は平易で分かりやすい。あまりに分かりやすいため、チベット仏教がもっている神秘性が犠牲になっているのではないか、などとおせっかいを焼きたくなる。実際、この本に書かれている仏教観はほとんど今まで日本に紹介されている仏教観とほとんど変わりがないのではないか、と思えるくらいだ。これはある意味、当然のことなのだが。  しかし「仏教発見!」ににあったように、、日本の仏教は「戒律の修行が少ないようだ。自分の宗派の経典だけではなく、もっとさまざまな経典を読むといい」というダライラマの印象の通り、この本では「戒律の修行」の重要さが強調されている。この戒律というのは実は、ゾルバ・ザ・ブッタを説いたOshoの世界には、ない、と言ってもいい。私などは、その違いに少し戸惑う。  また、チベット仏教の生死観は、日本仏教の生死観に類似はしているが、はるかに精緻に表現されている。  人は死ぬと、中有[バルド]という中間状態に入ります。(中略)中有は7日間続きます。一週間後、中有にある者が自分とふさわしい境遇とめぐり会うと、自分にふさわしい世界に生まれ変わります。p85    日本の仏教界では、霊の存在はおろか、転生輪廻を認めるかどうか一様ではない。さまざまな解釈がされており、ゴータマ・ブッタは、それらについては明言しなかった、というのが定説である。  チベット仏教には、ニンマ派、サキャ派、ゲルク派、カギュー派の四派があります。そのうちどれかひとつがほかにまさっていると決めつけるのは、大きな誤りです。四派とも、釈尊を師と仰ぎ、顕教と密教の両体系を一体化しています。わたしは、この四派すべてを心から信じ敬う気持ちを育てようとしています。p30  ダライ・ラマ14世はゲルク派の最高位に位置する存在だが、チベット仏教全体を代表して、「チベットの死者の書」に書かれているこの転生システムを公言する。この辺がチベット仏教がチベット仏教たるゆえんである。しかし、また謙遜することもわすれない。  チベット仏教がほかの国の仏教よりすぐれていると考えてもいけません。タイやビルマ(ミャンマー)やスリランカの僧は、出家者としての修行に心底から打ち込んでいますし、チベットの僧とちがって、2500年前に釈尊とその弟子たちが行なった托鉢の行を、いまだに習慣として続けています。p30  いずれにせよ、このブログでは、チベットの死生観を根底に据えていこうと思っている。それはOshoの死生観に連なるところでもあるし、また、私がこのブログで展開しようとするアガルタへの旅は、この考え方がなくては、前にすすまないからだ。死生観という限り、死に際するシステムとおなじように、生に際するシステムも明確に言及する。  両親が交わって絶頂に達すると、濃厚な精☆が1、2滴、卵子と混ざり、沸騰した牛乳の表面のようにクリーム状になるそうです。その瞬間、中有にある者としての意識が途絶えて、その混合物のなかに入ります。こうして胎内に宿るのです。p87(楽天倫理による伏せ字☆は液)  日本の仏教書の中で、大真面目でこのような表現を書く宗教家はどれだけいるだろうか。せいぜい、「チベット仏教ではそういわれているそうですが・・・・」程度の表現となろう。いずれにせよ、この辺は、科学的に証明されようがされまいが、ダライラマの独壇場だ。  輪廻の苦しみを味わうことと、人間界より下等な世界に落ちることへの恐れが動機となって、仏法僧の三宝に帰依する人は、誰でも仏教徒と呼べます。三宝とは、仏と、ダルマ(仏法、すなわち仏の教え)と、サンガ(僧伽、すなわち仏教の修行者たちの集団)のこと、帰依とはこうしたものを深く信仰し、それに従い、すがることです。p104  三宝の考え方はまったく同じことだが、サンガについては、こうも言っている。  一般的に言って、かつてチベットで見られたような大きな僧侶の共同体はかならずしも必要ないとわたしは思っています。たとえ小さな共同体であっても、ほんとうに高潔な僧からなるもののほうがよいのではないでしょうか。p111  私は、このブログのなかで、ネット上のサンガを夢見ている。どこかの国にあるコミューンという形態も素晴らしいと思うが、今、地球上のアセンションを考える時、高山にある人里はなれた僧院より、ネット上にあるブローバルなサンガのほうがより本質的な仕事をする可能性があるのではないか、そのような可能性を模索している。  「四種の悪行と四種の善行」の中で、こういう。  第四の悪行は、良心の呵責も感じずに他者を欺くことです。それも、自分の欠点を隠し、高い次元の悟りを開いているふりをするのは、なおさら大きな悪行です。p195  ダライ・ラマはどこまでも謙虚だ。20世紀においては、クリシュナムルティが救世主の立場を降りたり、昭和天皇が人間宣言したりと、人間主義が拡大された時代だった。  わたしが、師へ傾倒することや師が仏だと気づくことが大切だと述べたからといって自分が仏であるとほのめかしているなどとは誤解しないでください。そんなことはないのです。自分が仏でないことは承知しています。ほめそやされようと、とがめられようと、わたしはただの仏教僧であることは変わりはありません。わたしは僧です。p50  ラマとは活仏として認められているのだが、ダライ・ラマがこのような言葉を明言するからノーベル賞をもらったのかもなぁ。この辺は、Oshoがサニヤシン達を一万人のブッタたちに見立て、ブッタとして生きなさい、といったセンスとは大いに違う。その他、ミラレパやナーガルジュナ、アティーシャなどについての言及がある。ダライラマの他の本もいろいろ読んでみたい。 

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