2009/02/11(水)16:39
ガラス玉演戯 <4>
「ガラス玉演戯」 <4> <3>より続く
カスターリエンのガラス玉演戯名人、ヨーゼフ・クネヒトは、ついに失踪する。長いながい研究と思索の結果、彼は彼としての最善の道を選ぶ。ガラス玉演戯の完成度が高いゆえに、名人という地位が限りなく高貴なゆえに、さらにその地位は、越えて行かれなければならない。ヘルマン・ヘッセが晩年の10年をついやして創造した世界は、どこまでも透明度がたかく、整合性を追及しつつ、その整合性をこえて、神秘の前に消えようとする。
最近、セカンドライフというバーチャルゲームの存在を知った。ファーストライフをリアルな自分として、もう一人の自分をバーチャルな世界で活躍させ、限りなくコミュニケーションからビジネスから創造活動までやってしまおうという試みだ。このコンセプトは鳴り物入りでスタートしているようだが、今後どのような展開を見せるのか、注目してみようと思っている。
ところで、このゲーム(サービス)のネーミングがセカンドライフなので、一般名詞として2ndライフとして、このブログでの新しいカテゴリが始まった。しかし私は、このカテゴリに、もうすこし広義の意味をもたせたいと考える。例えば、Web2.0もまた、ある意味では、インターネットの2ndライフだと思う。あるいは2ちゃんねるもまた、「2」を強調するところに、2ndの意味が込められているのだろう。もちろん団塊の世代の定年後の生活も2ndライフともいえるだろうし、むしろこちらのほうが一般的だ。あるいは、
カウンターカルチャーという言葉も概念としては2を持っているかもしれない。2号、なんて言葉で何をイメージするかは、人それぞれだが、1号をキープしたまま2を獲得し、2へ移行するのか、あるは、いつでも1へ舞い戻る可能性の道を残したまま2へと幅を広げるのか。2は、もうひとつの、とか新しいとか、あるいは否定の意味も込められているかもしれない。nextという意味もあるだろう。あるいは、アセンションなんて言葉も、現在の地球人にとっての2ndライフを意味しているかもしれないのだ。人によっては、自殺が2ndライフを意味さえしているかもしれない。
ヨーゼフ・クネヒトは、限りなく1の人間として生きた。限りなく1をきわめてしまった。あまりに1を正確にきわめてしまったがゆえに、2が見えた。1の次に2にいくしかなかった。なぜ2にいくのか、ヘッセはこの「ガラス玉演戯」で限りなく思索しつくす。そして2に行き、2については、多くを語らないまま、クネヒトはこの世をさる。
シャボン玉
長いながい年月の研究と思想の中から
遅くなって一老人が晩年の著作を
蒸留させる。そのもつれたつるの中に
彼は戯れつつ甘い知恵を紡ぎこんだ
あふれた情熱に駆られて、ひとりの熱心な学生が
功名心に燃え、図書館や文庫を
しきりにあさりまわって、
天才的な深さのこもった青春の著作を編んだ。
ひとりの少年がこしかけて、わらの中に吹き込む。
彼は色美しいシャボン玉の泡に息を満たす。
泡の一つ一つがきらびやかに賛美歌のようにたたえる。
少年は心のありたけをこめて吹く。
老人も少年も学生も三人とも、
現世の幻の泡の中から
不思議な夢を作る。それ自体は無価値だが、
その中で、永遠の光がほほえみつつ、
みずからを知り、ひとしおたのしげに燃え立つ。
ヨーゼフ・クネヒトの遺稿から p386
つづく