地球人スピリット・ジャーナル1.0

2007/12/17(月)08:39

野生の思考

チェロキー(108)

「野生の思考」クロード・レヴィ・ストロース /大橋保夫 1976/03 出版社: みすず書房 単行本 366p No.885★★★☆☆  「人間学」と「人類学」がどちらもanthropologie(語源はanthropos「ヒト」の学)であることに、本書では特別に留意する必要がある。この語はもともと一般には生物学的な人類学、すなわちanthropologie physique「自然人類学」のことを指し、哲学者は「人間学」という意味に使って来たけれども、両者はほとんど重なり合うことはなかった。 アングロ=サクソン系の国々では早くから「民族学」ethonologieの代わりに、「文化人類学」anthropologie culture ないし「社会人類学」anthropologie socialeを含めてこの語が用いられてきたが、フランスではanthropologieが社会科学人文科学に用いられるようになったのは、とくにレヴィ=ストロースによるところが大きい。 近年は社会心理学、経済学、政治学、精神分析学などの関連領域を含めて、さらに幅広い人間研究に適用されている。しかしながらレヴィ=ストロース自身はとくに本書では、サルトルとの関係もあって、ethos「民族」に焦点を合わせたethnologie「民族学」と対比してanthropologieに人間の普遍性全体性の探求として厳密な意味を与えて用いている。 それゆえに哲学的な「人間学」と重なり合い、「哲学対人類学」という問題に真正面からぶつかることになる。しかしanthropologieをめぐる議論をしかけたのもサルトルの方である。『弁証法的理性批判』においてanthropologie structurelleを説くとき(『方法の問題』の結論、本論邦訳第三巻の最後など)、それはレヴィ=ストロースのAnthropologie strucrurable(1958)に対置されていることは明白である。(structureの形容詞としては、フランス語の造語方からはstructurelのほうがより自然である。 プラハ学派の用語として言語学でstrucruralが用いられてきたために、レヴィ=ストロースはそれを使っているのである。なおサルトルのstrucrurelとstrucrualとの違いについては、『レ・タン・モダンヌ』1996年11月ごうの構造主義の問題特集--邦訳『構造主義とは何か』みすず書房--のプイヨンの紹介文参照。) サルトルにとっては実存哲学こそanthropologieなのであって、人類学はethnologieとしてしか成り立たないと考えている。これが単に多義語による混乱ないしは恰好のよい名前の取り合いではなくて、レヴィ=ストロースの考える意味でのanthropologieとしての人類学の成立つ可能性を否定するものであることは、たとえば次の文でもあきらかである。 「諸集団の多様性と、各社会の通時的な進化とが、一つの概念的知の上に人間学(anthropologie)を打ちたてることを禁じている。たとえばミュリア族と現代社会の歴史的人間とに共通の<人間性>を発見することは不可能であろう。」(『方法の問題』平井啓之訳、179頁) レヴィ=ストロースは、本書において、最終章「歴史と弁証法」のサルトル批判にとどまらず、全篇で、サルトルなどが「未開人」についてもっている偏見を打破し、「現代社会の歴史的人間とに共通の人間性」があることを明らかにして、人間学としての人類学の根拠を示そうとするのである。 Anthropologieとethnologieをめぐるこのようなやりとりを考慮に入れないと、サルトルの哲学は民族学者にとって現代の神話の研究に不可欠な第一級の民族誌的資料である(本書300頁注)というような文が賛辞ではなく痛烈な批判であることが理解されない。p361訳者あとがき フーン、な る ほ ど。    ハイビジョンカメラ(広角)による「地球の出」の撮影映像

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る