地球人スピリット・ジャーナル1.0

2008/02/12(火)18:57

意見書 「大地の豚」からあなたへ

OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2(108)

 「意見書」 「大地の豚」からあなたへ 加藤三郎 1992/01 思想の科学社 352p No.978★★★★☆  新左翼という言葉で久しぶりに思い出したこの一冊。いつかは[ OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2 ]というカテゴリの中で取り上げようと思ってチャンスを見計らっていたが、割と早くやってきてしまった。本来であれば、もうすこし私なりのOsho観がしっかりしたところで、アンチテーゼ的にバージョン0.0.3か0.0.4あたりでぶつけようと思っていたのだった。  だが、久しぶりに読み返してみて、これはOshoに対するアンチテーゼになるような本ではないな、と思い直した。この本がでたのは1992年だが、それに先立つところ断片的には、彼の文章を読んでいたのかもしれない。そのため印象がOshoに関わるところが多かったような気がしていたが、いわゆる<批判的>な部分はp313~316に渡る部分(1988年12月に書かれている)がほとんどで、しかも、そのターゲットになっているのは、「大いなる挑戦-黄金の未来」(87年の夏秋にプーナで語られている)の数章に限られている。  最近の彼の状況は彼のブログを読むのが一番いいのであろう。友人はOshoのサニヤシンとしての名前のデバムで呼びかけることもあるが、本人は、自分のニックネームを「sb-野の花・野の豚」としている。現在の彼がOshoについて、どのような感慨を持っているのか、まとまったものとしては私はあずかり知らない。  ただこの「意見書」を再読するにあたって、再確認することは1960年代から70年代、80年代にかけての時代体験というものは、著者と私に間にはそれほどのギャップがないということだ。この本において、「永山則夫は私でもある。彼の弾丸は誤った方向に向いていただけだった。私たちは彼の志を受けつがなければならない。そしてその銃口を真の敵に向けなければならない」p68と書いている。  このようなレトリックは、おなじ「うんどう」の中にあった「どうし」たちに向けても何度か書かれている。それほどの密度の高さには及ばないにしても、私が著者に感じる共感というものは、ややこの表現に近い。  ようやく周囲の反対を押し切り環境を整えてインドに旅たった11月、政治的活動家達は地下に潜伏化して行き「東アジア反日武装戦線・大地の豚」の加藤三郎ことのちのSwデバムは最後の個人的爆弾闘争を決行していた。彼がもうすこし早くOshoと出会っていたらのちに獄中の人になることもなかったかもしれないし、また私がOshoに触れなかったらもうひとりの加藤三郎になっていたかもしれない。「湧き出ずるロータス・スートラ」p3  もちろん歴史には「もしも」はない。彼は私より学年で5つ上だが、高校生でべ平連との接触があったり、のちに太田竜の本とであったりしているところは、割と酷似している。あるいはあの当時の平均的ハイティーン像といっていいのかもしれない。この辺に互いに「共犯幻想」をいだきやすい環境があるのかもしれない。  私の”狼”の人たちや大森君への批判は、私の主体的責任を徹底的にみつめ、それを回避することなく負ったうえでの批判ではなく、彼らと関係してきたが故に苦しんだのだから、その私の苦しみを彼らが理解し、受けとめてくれるのは当然だといった、被害者意識や依存、甘えがあった。  すこし話はそれるが、そうはいってもかって過激な武装闘争を煽動し、それが”狼”たちの武装闘争や道庁爆破闘争を闘った人々にも何らかの影響を与えていたと思われる太田竜さんが、そうした自分の扇動に対する関係責任は少しも引き受けようとせず、「実は自分はすでに72年頃から”狼”の闘いや道庁爆破のような闘いは有害きわまりないものだと思っていた、彼らはアイヌの解放運動をオモチャにした」、といった悪罵を、まったくの自己批判抜きで平然と語っているのには、深く静かな憤りを覚える。  そのような無責任極まりない人が、今はエコロジーについて、仏陀やイエスについて語り、あげくは死した後は地球を守る菩薩になりたいなどといい、そのまわりにいる人に救世主呼ばわりされてさえいることには唖然としてしまう。p177  太田竜の「辺境最深部に向かって退却せよ」などの著書は、当時としては、たしかによくできた煽動書だったが、もう、これ以上ドラゴン将軍の突撃ラッパにごまかされてはいけない。最近でも、盛んに言論を展開しているが、私は彼の言動には組しない。彼のような洗脳的デマゴーグに対しては、ひたすら瞑想シールド内に逃げ込むに限る。  巻末で「この本について」を書いている加藤典洋が、「太った豚」と「やせたソクラテス」の対比を展開しているのが面白い。わがブログでも偶然「肥えた豚と痩せたソクラテス」という一文があったことを思い出して、笑った。  なぜ「狼」は痩せて精悍で、「豚」は太って醜いのでなければならないのでしょう。  これは、想像力の貧困というべきではないのでしょうか。 「太ったソクラテス」がいたっていいし、「痩せた豚」がいてもいい。  学生運動が盛んで、それが「全共闘」運動などと呼ばれていた頃、わたしはかなり真剣にそんなことを考えていましたから、それから何年かして「世界革命戦線・大地の豚」という”部隊名”が現れた時、わたしの眼にはそれは、「狼」や「大地の牙」といった東アジア反日武装戦線(その頃彼らは全員逮捕されていました)の”部隊名”、またその命名がよく示している彼らの闘争のあり方に、自分と同じような違和感をもつ人からの”合図”のように見えました。p327  もうすでに、昔々のお話になってしまった世界のことだろうか。今あらためてもう一度見直してみるべきことがらなのだろうか。今は混沌として判然としない。しかし、この本は、再読してみるべき価値のある一冊として私の中に長く記憶されてきたし、今こうして[ OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2 ] の中で、読み直せたことで、なにはともあれ、ホッとした、という感慨が強い。 

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