地球人スピリット・ジャーナル1.0

2009/01/01(木)08:28

生と覚醒のコメンタリー(2) クリシュナムルティの手帖より

mandala-integral(108)

(1)よりつづく 「生と覚醒のコメンタリー」(2)クリシュナムルティの手帖より ジッドゥ・クリシュナムルティ /大野純一 2005/03 春秋社 全集・双書 393p  Vol.2 No.491 ★★★★☆ クリシュナムルティ・・・・、この人の本をじっくり読む人とはどんな人だろう、と、奥さんに、この本の一節を読んできかせ、いろいろ周辺の人たちをイメージしてみた。なかなか思いつかないが、ちょっと条件つきで、あの人なら、この本のイメージかな、という人は数人いた。もちろん、クリシュナムルティを高く評価する友人たちもいることはいるが、その人の存在そのものがクリシュナムルティとなかなか結びつかないことも多い。 もうすこし年老いたなら、彼にはぴったりだ、とか、もし彼女が男性だったら、たぶんこの世界だね、とか、もしあいつがクリシュナムルティを読むんだったら、日ごろの不摂生を許してやろうとか、いろいろ勝手な人物論をしていた。あいつはまるでクリシュナムルティとは反対の極にいる、などと決めつけてしまったりもしたし、あいつこそクリシュナムルティを読ませるべきだ、と思える人物もいた。 さて、自分はどんなときになったら、クリシュナムルティを読みこむ気になるだろうと、と考えてみた。もちろん、現在はまさにその時なのだが、40冊ほどあるクリシュナムルティ本の何冊を読むことができるだろうか。結果が楽しみだ。とは言っても今回は、じっくりと一ページ一ページ読んでいるわけではない。たんにクリシュナムルティ街を通りすぎているだけだ。 20代では、余命半年を宣告されながら、がんセンターで闘病生活を送ったこともあったし、30代では、交通事故の後遺症のため4か月、ベットにはりつけられたことがある。思えば、結果論として、あのような状態でぽっかりと時間ができてしまったら、やはり私は本を読むだろう。40代では仕事上の都合で、時間があいて本を読む時間ができたこともあったが、今回は50代。たぶん、ベットに横になりながら、クリシュナムルティを淡々と読むような環境がやってきたら、今回はまっさきにクリシュナムルティの一連の本に目を通すに違いない。 と、勝手な印象を奥さんに言ったら、私なら、ベットの上で、ゲド戦記を読むわ、とおっしゃった。それとハリーポッターも読みなおしたいわ、と。ふむふむ、いろいろな好みがあるものだ。 彼は、一時神智学協会や、自ら主宰者であるはずの星の教団に対する関心を薄めていたようだ。しかし、教団自体は着実に伸び、クリシュナムルティが再び教団の活動に対する関心を取り戻した1920年当時には、世界各地で3万人以上の団員がいた。ちなみに、わが国では、今日出海さんのお父さんが、唯一の星の教団の団員だった。p380 今日出海は、今東光の弟であるから、この兄弟のお父さんがクリシュナムルティと親しくしていたという、今東光の「極道辻説法」のなかでのエピソードはここで裏打ちされている。クリシナ・ウォルテという表記も初々しいが、やはり、「自我の終焉」がでる1980年までは、日本においてクリシュナムルティはまったく無名であったということができる。 もっともここで今東光が言っている「主の御足にひれ伏して」は「「大師の御足のもとに」として日本でも翻訳されているが、Oshoは、その本はアニー・ベサントが書いたものだとしている。 今回、クリシュナムルティとグルジェフを交互に読みすすめていてあらたに気づいたことは、チベットの存在である。グルジェフはチベットのダライラマ13世のコンサルタントをしていたという俗説があり、本人もそれを否定していない。そしてクリシュナムルティは、マダム・ブラバッキーの神智学の流れから、チベットの奥地のクートフミやらグレート・ホワイト・ブラザーフッドなどという概念を受け入れていた時期もあったのだ。 この二人を、チベットという側面からアプローチしなおしてみるのも面白いと思った。(3)につづく

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る