黒谷城と対峙する柴田勝家付城の相関
天正8年(1580年)3月、柴田勝家らは朝倉残党の掃討作戦に打ってでました。下の地図1,2近辺が勝家軍の居城で、対する一向宗の首魁、岸田常徳が立籠もった山中城、黒谷城は両方をあわせると、山中温泉街を包括するような大規模な城郭です。 柴田城跡はまったく整備されておらず、殆どの地元住民もその存在すら知りません。途中、朽ちた木標が横たわっており、「あら、こんなものがあるけどがいね・・」という感じです。 山中温泉市街の眺望は●の地点からで、中世にはこの広範なフレーム全体の尾根伝いに城郭が点在したことになります。※訂正 図上1と2の位置が入替わってしましました。(図は国土地理院の25,000分の1地形図に上書きしたもの。城の位置などは 高井勝己氏著 『続・加賀の山城』を参考にした。)