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思わぬ形で、今まで全く知識のなかった福島県という場所と自分に、ちょっとした関わりができた。
今日は雪も降り、相も変わらず寒い北陸。 あまりの寒さに、子供共々家に引きこもる。 子供はゴムバンド作り、ちょうど良い機会なので僕は幕末の会津藩のお勉強をすることに。 日本史大好きな自分であるが、実はあまりこの戊辰戦争における会津藩についてあまり知らない。 子供の時に白虎隊のドラマを観て、あまりの犬死にっぷりに、子供心にドン引きしてしまい、ここいらにあまり近寄らなくなってしまったからだったりする。 不勉強ゆえ間違ってる点などあった時は教えていただけると、たいへん助かります。 さて、写真の方は会津家臣、西郷頼母(さいごう たのも) 「八重の桜」に出てたという事で、分かりやすそうなのがあったので貼っておきます。 僕はもっと昔の、里見浩太朗さんの方が印象強いです。 この人の面白い所は、これでもかと言うくらい評価がくっきり2分しているところ。 こちらの方を簡単に説明すると…。 幕末の明治新政府軍と旧幕府軍の争いにおいて、まだ抵抗できるだけの兵力を有し「明治政府なんて俺は認めないよー」っていう筆頭の藩だった会津藩。 結局会津藩は他藩への見せしめの意味合いも込めてか、会津戦争で新政府軍にケチョンケチョンにやられちゃうわけですが、その開戦前に「なんとか戦争せずにできんもんかなー」と、戦い一色の家臣団の中で頑張って和平の道を模索した人です。 さて、ここまでだと、ただの先見の明を持った良い人で終わるのですが…。 この人、緒戦の戦いの司令官をしてたんですが、戦があまり上手でなく大負け。 その後退却して、イケイケ君主の松平容保に「やっぱこのケンカやめようよー」って進言しますが却下。 「だめだこりゃ」と思った頼母、伝令の仕事をもらったという名目で、長男1人を連れて北へ向かいます。 ちょうどこの時城下では、戦の時の習いとして女子供等は足手まといになるということで、頼母の一族郎党21人が自刃しています。 その後はあまり戦を頑張ることもなく北へ向かって転戦し、旧幕府軍の降伏と一緒に函館でとっ捕まり、74歳で亡くなるまでは、先生や宮司をしてその後の人生をすごしたそうです。 さあ、みなさんはこの人物をどう評価しますか? 会津藩の兵士を含めた、多くの民の事を思えば頼母の行動は間違いなく正しいものです。 ただ、負け戦の司令官としてのその後の動向、一族郎党の予見できたであろう悲劇など。 この行動自体になんだか腑に落ちないものを感じる人も多いでしょう。 たぶんこの辺が評価が2分する最たる理由なのかな、と思います。 この人物の評価を見て僕が思ったのは、評価する人間がどんな人生を歩みどんな信条を持っているかによって評価が決まるのかな?、ということでした。 この場合、単純なとらえどころは「組織における自身の身の置き方」。 組織の中で自分の思う正しい考え、が通らなかった時。 その中での「責任と持ち場」というものと「努力の方向性と生きてこその思想」。 この浪花節と合理主義ともいえる2つの考え。 この話、結局は評価される側の話ではなくて、評価する側の人の人生そのものを問われてるような気がするのは僕だけでしょうか? そう考えると、人の評価というものも時代や評価するその人の人生経験でコロコロ変わる頼りないものなんだろうな、と思います。 だから、自分が悩み考え抜いた答えをしっかりと信じて。 周りの頼りない評価というものに惑わされることなく、進んでいくのが大事なのかなと思った次第。 そして、その後の身の振り方。 浪花節も合理主義も、どちらが正しい良い悪いということはない。好きな方を選べばよい。 肝心なのは自分の心に聞いて自分が決める事。 シングルの人は今も、そしてこれからもやはり人より悩む事が多くなると思う。 そんな時に、頼りなげな人の評価というものなんかに惑わされることはない。 しっかり自分自身で悩み考え抜いて出した答えで、その道を進んでいけばいいと思う。 そのあとは臨機応変に。変な縛りを自分自身にかけないで。 おまけ 頼母が晩年、養子にとった四郎君。この人が「姿三四郎」のモデルになった講道館四天王の一人、西郷四郎です。 柔道やってた僕ですが、この人が得意にしてた「山嵐」などという大技なんてものは使うことなく、あっさりと3年のキャリアを終えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015年01月27日 19時01分34秒
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