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2024/07/01(月)01:00

国のために死ぬのは道徳的か?(その2)(1日の日記)

ニュース(3802)

国連職員として世界中の武力紛争の地域に出かけ、武装解除の業務に従事した経歴を持つ国際政治学者の伊勢崎賢治氏は、河村・名古屋市長の「国のために死ぬのは道徳的だ」との発言に関連して、6月1日の朝日新聞で、次のように述べている; ■政治家、市民守るのが責務  祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為――そんな発言を政治家が広く市民に向かって行うのは、戦争への動員強化につながるあおりであり、国際人道法の精神に反します。  戦争のルールを定めたジュネーブ条約(1949年)は、戦闘員と市民とを区別し、市民を保護するよう義務づけています。  市民保護が重視された背景には、第2次世界大戦で住民虐殺を防げなかった経験への反省があります。民間人を装った偽装兵が住民の中にいるかもしれないという疑いをかけて一般市民まで殺傷する行為を、旧日本軍もしてしまいました。  いま政治家の責務は、市民は戦う用意がない存在であることを明示することです。国際人道法を盾に自国の市民を守る行為です。  逆に「我が国の市民はいつでも戦う用意がある」と言明したら、敵に無差別攻撃を正当化する機会を与えかねません。領土問題などの対立点を交渉によって平和的に解決する環境作りのためにも、政治家は動員強化に慎重であるべきです。  その意味で僕は、ウクライナ侵攻以降、国家が国民を戦争動員する行為への許容度が世界中で高まっていることを懸念しています。  万一戦争が起きてしまったときに銃を取るのか逃げるのかは本来、各自が考えて決めるべきことです。徹底抗戦しているというイメージが広がっているウクライナの国民の中にも、徴兵拒否の動きはあります。  僕自身はどうするか、ですか? 逃げますね。逃げるために銃を取るということはあるかもしれませんが、国家に命じられたり動員されたりして銃を取ることは、絶対にしません。  逆に、戦争回避の努力をしない政府や、敵と交渉する勇気のない腰抜け政治家を排除する行動には立ち上がるかもしれません。僕は、国民には「抵抗権」があると思っていますので。  伊勢崎家の本籍は小笠原諸島でしたが、大戦中には一族郎党30人ほどでサイパン島に入植していました。米軍に追われ、ほぼ全員が「バンザイ・クリフ」から身を投げて死んでいます。生き残ったのは、僕の母を含む数人だけでした。  当時の日本は、全国民に「国家のために死ね」と強要する国家でした。その結果が、無辜(むこ)の市民をも巻き込んでの「玉砕」です。  国家に命令されて銃を取ることはしないという僕の考えには、いま思えば、母たちの経験に影響された面もあるかもしれません。 (聞き手 編集委員・塩倉裕)      * <いせざきけんじ> 1957年生まれ。東京外語大学名誉教授。国連などで武装解除を指揮し、平和構築に詳しい。著書に「14歳からの非戦入門」など。 2024年6月1日 朝日新聞朝刊 13版S 11ページ 「耕論-国のため死ぬ=道徳的?」から一部を引用  万一戦争が起きてしまったときに銃を取るのか逃げるのかは、各自が考えて決める、これが現代を生きる人間の基本的な考え方だと思います。また、戦争が起きてしまえば市民の「死の危険」は一気に高まるのですから、政治家としては国が戦争をする事態になることは最大の「失政」であり、あってはならないことです。ウクライナの紛争は「ロシアが一方的に侵攻した」ということで、世界中が「ロシア悪者論」に支配されてますが、ウクライナのゼレンスキー大統領がNATOに加盟して自国内に米軍基地を置こうと画策したからロシア軍の直接行動を誘発したのであって、この戦争は明らかにゼレンスキー大統領の「失政」であり、やがてゼレンスキー氏の責任が問われる日が来るのは間違いないと思います。日本の場合も、中国の内政問題である「台湾問題」について、沖縄県にいる米軍が不当に介入したことが原因で中国軍の軍事行動が日本にも及ぶ事態となれば、これは明らかに日本政府の「失政」ということになります。そのような「失政」の事態に立ち至らないように、今のうちから米軍の行動について「くぎを打っておく」必要があると思いますが、現在の日米政府の力関係からいって、中々簡単な仕事ではないように見えます。しかし、自国の領土と国民の命を守るために努力する政府を実現する努力は、今からでもしなければならないことです。

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