もし生まれついての差異があるのならば、
『人種とIQの相関は(存在することが示されたとしても)、各人が人種カテゴリーにあてはめられ、自己の権利をもった個人としてではなく、カテゴリーの典型として扱われる人種差別主義の社会を除けば、社会的な影響を何もともなわない。(中略)ついでながら私は、IQは遺伝性かもしれない、おそらくはそうだろうという話を、これほど多くの解説者が不穏なものと見なしていることに驚いている。相対的な身長の高さや、音楽の才能や、100メートル走のタイムが部分的に遺伝子によって決定されていると判明したら、それも不穏なことだろうか?なぜこれらの問いについてなんらかの予断をもたなければならないのだろうか。これらの問いに対する答が、内容いかんにかかわらず、どのように(現状の知識における)まじめな科学の問題や、まともな社会の社会習慣に関係しているというのだろうか。』(Chomsky,1973,pp362-363.)引き続き「人間の本性を考える」からの引用です。「自己の権利をもった個人」自分と他人が違っていることは、物心ついたときから知っていて、違っている部分が羨ましく思えたり、時には見下したりしてしまうことは、避けられない。でも、結局は「違うからどうした」ってことで、お互い認め合いながら生きていく意外方法がない。才能が取り沙汰されることが多い。才能は持って生まれたものかもしれない。『人間が生まれつき平等だというのは正しくない。もし彼らを平等に扱ったとしたら、その結果はその人の実際の位置に対して不平等になるに違いない。平等な位置に置く唯一の方法は、さまざまな扱いをすることであろう。』(フリードリッヒ・ハイエク)教育の問題も揺れている。ゆとり教育は望ましいのか。生まれつき能力が平等でないこと、加えて経済的環境も平等ではないことは、みんな知っている。しかし、生きているからには、「違うからどうした」と思い続けるしかない。そして、いろいろな出会いの中で、自分と他人との違いを肯定的に受け止められる場所に留まるしかない。教育をはじめとした社会的な装置は、僕たちをカテゴライズしようとする。カテゴライズが多様な社会が望ましいのであって、どのようにカテゴライズするのか一つに決めることが重要なのでは、決してない。