カテゴリ:読書感想
最近、古谷実の『ヒミズ』を読んだ。
健常と異常の境目の曖昧さ、すぐ隣にある本当の恐怖。 それは自分で制御できるとか、できないの問題(自分の中の他人として)ではなくて、自分そのものだから、その得体の知れないものと何時出会ったかさえ分からない。 今まさに自分は”普通”じゃないのかもしれない。 しかし、『ヒミズ』を読んで感じる恐怖は、実際、自分が同じような状況に追い込まれても、恐怖とは感じないのだろう。脅迫観念、ストレスって言葉が近いのかもしれない。 ”普通じゃない”って感覚が自分自身にフィードバックされないことの恐怖。 ”普通じゃない”って感じる自分が、自分の中にどこにもいないのに、どうやら自分は”普通じゃない”らしいと感じること。 話は飛んで、『愛の生活』岡崎京子。 桜田(妹)は、桜田(兄)に与えてしまった傷という負い目を、うまく清算できずにいる。 桜田(妹)の桜田(兄)に対する清算は、目の前で刺されて、血が流れたことで、終わったのだろうか。 僕はいつも、”普通じゃない”ことに対して、「清算する」という意味を付け加えることで対処しているようだ。 関係を大切にしなかったら別れることになり、 努力を惜しんだから、思ったような成功が収められず、 怠惰には、相応の対価を払わなければならないと。 でも、本当はそんなものは見せかけで、認知的不協和を起こさないための、脳味噌の仕組みだってこともなんとなく分かっている。 自分の中の他人は、別の自分に対して何か清算していないものがあるから存在しているように思える。 自分に厳しい自分や甘い自分、欲望に忠実な自分であったり、禁欲な自分。 互いに何か、貸し借りがあるかのように、対立する自分が何人も自分の中にいる。 それは、他人と自分との関係も同じで、自分が他人だとはっきり感じるのは、その人に何かを負っているとき。 やっかいな自分(他人)は清算してやればいい。それが難しいのだけれど。 自分の中の物語で起きる歪と、自分の物語を超えた部分でおきる歪。 前者は修復可能だが、後者は修復不可能なのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.01.26 23:46:32
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