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2019/12/12(木)06:35

芭蕉紀行

頭  出  し  小  説  等(110)

​​  芭 蕉 紀 行  はじめに   芭蕉の旅は秘密だらけだ   芭蕉の名前を最初に知ったのは中学3年の国語の授業で、教師より「奥の細道」の冒頭  「月日は百代の過客にして、行かふ水も又旅人也。・・・・・」と暗誦させられた。  そのときは意味もわからず「ツキヒハハクタイノカカクニシテ・・・・」と  お経のように覚えたものだが、そのうち芭蕉の言霊が躰にしみてきて授業をほっぽり  なげて旅に出たくなった。で、中学3年の夏休み、私はひとりで日光、黒羽、白河まで出かけ、  阿武隈川を見て帰ってきた。東北新幹線などない時代だからここを廻るだけで1週間かかった。  その先の松島、平泉まで行ったのは中学の修学旅行で、中尊寺金色堂に入ったときは、目玉が  黄金色に染まり、ぶったまげて腰がぬけた。  森の闇と、(金色堂)内部の黄金が隣りあわせにあるこの世のからくりを目撃した。  「奥の細道」すべてを踏破したのは大学3年の春で、3週間ほどかかった。  授業をさぼってブラつく旅はなかなかのもので、一人前に芭蕉の気分になり、雑草を見て  「夏草や兵どものが夢の跡」と嘆息し、最上川で遅咲きの桜を見て船にのり、立石寺の  石段を息せききって登り、「佐渡によこたふ天河」を見物したのだった。  そのころよりさして目的のない放浪癖がはじまった。  私はいまでも年のうち半分はウロウロと旅をしていて、その原因をさぐれば芭蕉性感染症である。  中学3年で「奥の細道」巻頭を暗誦したときから、旅を栖とする呪縛にかかって、どこかを  放浪しているときだけランランと眼が光り、家に帰っても4,5日たつと腰が浮いてくる。  慢性旅行中毒者となった。  50歳をすぎてからも思いつくままに、「奥の細道」の旅へ行くようになり、曾良「旅日記」  を読み、「菅菰抄」を読み、旅さきからの書簡を読み、それまで気がつかなかった「奥の細道」  のフィクション性を知るようになった。  私にとって芭蕉は風狂の詩人であって、「まてよ」と思うときもある。  芭蕉は手に負えない無頼の徒であって、旅のあいだ、かなり好き放題をやっていた。  「奥の細道」は二重三重に仕掛けられた文芸の罠があり、それを実地検証すると  驚きの連読で、「はっ」と声をあげることもたびたびであった。  芭蕉は、人も句も蜃気楼のようで、近づいてつかまえたと思った瞬間に手から  抜け出して、遥か奥に屹立している。  芭蕉をつかまえるのは難しいものの、旅のあとを辿ることによって立ちあがってくる  「風雅の魔人」がいる  芭蕉が句を得た現場に立ち、芭蕉の目玉を拝借して、光りと風をすくいとるのである。  風景に300年余の時間が侵食し、句がピチピチと動き出す。  芭蕉全紀行を思いたったのは3年前のことであった。  芭蕉が「奥の細道」に辿りつくまでの足跡を全部まわってみることにした。  「野ざらし紀行」は芭蕉41歳の旅である。  「野ざらし」とは野に捨てた髑髏(どくろ)のことで、芭蕉は野たれ死に覚悟で旅に出た。  旅の途中、富士川近くで3歳の捨子を見るというドラマチックな展開がある。  続いての「かしま紀行」は鹿島神宮へ月見に行く風流な旅であった。  あやしい旅は心を寄せた美青年杜国(万菊丸)との蜜月「笈の小文」である。  「笈の小文」は秘密本のままにしておきたかったのではないだろうか。  また、おばすて山で月見する「更科紀行」のルートは、芭蕉ゆかりの俳枕が多く  残っており、芭蕉ファンにとっては一番の穴場である。  幻住庵記」を書いた滋賀膳所の幻住庵、「嵯峨日記」を書いた京都嵯峨の落柿舎、  東京深川の芭蕉庵のいずれもが芭蕉の息がひそんでおり、そこでの句や俳文と  読みあわせるとおぼろげに見えてくるものがある。  芭蕉が「おいでおいで」と手招きしてくれるようだ。  近代の芭蕉評価は精神的な要素が強調されて、崇高なる詩人として  あがめられ、その結果、かえって芭蕉の人間性が見えなくなった。  芭蕉を解く鍵は、「旅を栖」とすることの意味である。  まずは、ふるさとからの離脱を知らなければならない。  ということで、まずは、芭蕉の故郷、伊賀上野へ向かうことにした。   あとがき   どこへいっても芭蕉のファンに会った。  深川芭蕉庵でも、白河の関でも、山中温泉でも、「奥の細道」文庫本を持った      紳士淑女が、感慨深げに旅をしている。  芭蕉さんは圧倒的人気があり、読む人の心をズバッととらえる俳句を作った。  芭蕉は、われわれ百人がかかってもかなわない文人だが、芭蕉が没して300年たち、     なお芭蕉を慕って旅をする人がこんなに多いことが驚きである。​     日本はまことに文芸国家であって、芭蕉をこれほど大切にする人々にも力がある。     芭蕉も力技だが読者にも力があるのだと思う。     芭蕉が放った言霊が地に棲みつき、みんなそれに会いにいくのである。     旅さきの俳枕で、旅する者は芭蕉と会い、無言の会話をし、その一瞬に天から句が     降ってくる。 そこには、本で読むときとは別の感動がある。  この紀行で、私は従来の案内書にかかれていない芭蕉のゆかりの地をずいぶん廻った。    ひとつは「かしま紀行で、もうひとつは「更科紀行」である。    ゆかりの場所を捜すのはけっこう時間がかかり、近所の店の人に訊いたり、教育委員会に    あたったりで苦労をした。捜しあてた場所は個人宅であるため具体的住所を書けない  ケースもあり、あるいは荒れはてて無残に崩れ落ちた句碑も見たが、それはそれで    しかたなく、旅を終えてまた、「夢は枯野をかけ廻る」のである。    芭蕉を旅するのは枯野めぐりでもあるのだ。  芭蕉が「奥の細道」を旅したのは46歳である。    死んだのは51歳であった。    ということは46歳から51歳にかけての人が芭蕉を追う旅に出ると、芭蕉の気分が    わかるのではにだろうか。    私はすでに芭蕉よりも歳上となり、芭蕉より歳をとるなんて考えたこともなかった。    アーアと溜息が出るものの、若いころに気がつかなかった部分が見えてきて、    これもすてがたい。  旅を重ねるたびに芭蕉と一体化していき、風狂と無常を    友として寝るのである。                   2000年3月     著者: 嵐山光三郎  平成16年4月1日 発行   1942年、静岡県生まれ。雑誌編集者を経て作家活動に入る。   旅と温泉を愛し、一年のうち、8ヶ月は、国内外を旅している。​

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