斜 陽
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ。」と幽かな叫び声を
お挙げになった。
「髪の毛?」スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ。」お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に
流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、
そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに
滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張ではない。
婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違って
いらっしゃる。 弟の直治がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向かって
こう言ったことがある。
「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、
天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように
爵位だけは持っていても、貴族どころか賤民にちかいのもいる。
岩島なんてのは(と直治の学友の伯爵のお名前を挙げて)あんなのは、
まったく、新宿の遊郭の客引き番頭よりも、もっとげびてる感じじゃねえか。
こないだも、柳井(と、やはり弟の学友で子爵の御次男の方の名前を挙げて)
の兄貴の結婚式に、あんちきしょう、タキシイドなんか着て、なんだってまた、
タキシイドなんか着て来る必要があるんだ。
それはまあいいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという
不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。
著者: 太宰 治
昭和46年10月15日 第1刷発行
明治42(1909)年 6月 青森県に生まれる。
昭和23年6月 愛人山崎富栄と共に玉川上水に入水、同19日、遺体が発見された。