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文の文

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      鼠志野                 

夜の旧東海道に畳職人の雪駄が鳴る。

一升瓶を抱えた統三が「ふびんや」の引き戸を開けて、声をかける。

「いやあ、いつもすまないねえなあ、あずさん。あつかましいが、また、ふたりしてごちそうになりにきたよ」
そのうしろで娘のあかねがぺこっと頭を下げる。

外の冷気がふたりにまとわりついてきて、火の気のない店の温度はなおも下がる。
「ああ、統三さん、おこしやす。どうぞどうぞ」

あずはふたりを迎え入れ、クセのある重い引き戸をきっちり閉めて、カーテンを引く。
「今年は十二月に入ってから、えらいさむおすなあ。あかねちゃんも、あがってあがって」

店のこあがりから廊下に出て奥の部屋へ入ると、年季ものの灯油ストーブが真っ赤になって温めた空気が三人を迎える。

「あー、ここ、あったかーい」と、あかねがストーブの前に陣取って掌をかざし、統三は鼻をすすり上げる。

「おじさん、こっちへどうぞ」と、ひながコタツの上座を指して言うと、統三は手にした酒を差し出す。
「ありがとよ、ひなちゃんこれ、もらいもんなんだけど、新政とかいう秋田のほうの酒」

「へー『とわずがたり』っていうんだ。ありがとう、おじさん。寒いから熱燗かな?」

「ああ、いいねえ、たのんだよ」

 白い割烹着を着たあずが三島手の鍋のふたをあけると威勢よく湯気が上がり、煮えた冬野菜の匂いが湯気にからまって部屋にひろがる。

「今日は、ほんまは湯豆腐のつもりやったんやけど、夕方、着付け教室の生徒さんらからお歳暮やいうてカニが届きましたんや。なんや、たんとあるし、みんなで贅沢にいただきましょなあ」

 そういいながらあずがカニを入れ、他の具材も足していく。

「おお、うまそうだ。鍋はひさしぶりだなあ、な、あかね」

「もう、イヤミねえ。だって、鍋は大勢で食べるもんだもん。とうさんとふたりで食べてもちっともおいしくないんだもん」

「だよね。うちもそうだよ。はい、おじさん、お注ぎしましょう。駆けつけなんとかで」

ひなが統三の杯に燗酒を注ぐ。統三は太い指の間に収まった薄い杯を勢いよく空け、はー、うめえー、と声を出す。

「さあさ、そろそろカニもええみたいやわ。いただきましょうか」

気まぐれに強く吹く風が通りの電線を撓らせ、「ふびんや」のガラス戸を鳴らす。そのたびに古い一軒家はうめくように軋む。風にはむかうような犬の吠え声も遠く聞こえる。

部屋のなかでは、カニ肉をせせる音とぐつぐつ煮える鍋の音が四人を包む。

「カニもいいが、寒くなると白菜がうまいねえ」

「ひょっとしてお豆腐は、男前豆腐ってやつ? なんかいいかんじね」

「ひなちゃんもどうだい?」と、統三が注いでくれた燗酒をひなも口にする。

くいっと咽喉に落とすと、とたんに体が熱くなる。ぽっと頬を赤くするひなを見てあかねが声をかける。

「ひなちゃん、日本酒、だいじょうぶなの?」

「うん、おいしいよ。なんか熱いんだけど、ふわってするの。いい感じよ」

「そうなんだよ、ひなちゃん、ふわっとしたいからみんな酒を飲むんだよ。な、あずさん」

「そうそう。お酒はぱーっと、あかるう飲みましょなあ」

「おばさん、もっと言ってやって。とうさんたら、ここんとこずーっと『せつー』なんて情けない声出しながら飲んでるの。『ひょっとして、おとこの更年期じゃないの?』って向かいのおばあさんが言うくらい」

「ばかいうな。なにが更年期だ、あのばあさん、言いたいこといいやがる」

摂の不在が長引いて、誰の目にも統三はいささか元気なく映る。

日々を畳に向って過ごしてきた統三の背中はうまく言葉にできない思いを閉じ込めるようにいよいよ丸くなったようにも見える。

昼間に見舞った病院でもリハビリ中の摂のほうが統三を案じていた。

「まあ、リハビリが始まったみたいやけど、だんだん入院が長ごうなってきましたもんなあ。わたしらかて、摂さんの顔が見えへんのはさびしいし、こころぼそうなってくるくらいやもんね。……そやけど、統三さんはとことん摂さんに惚れたはりますねんなあ」

 酒が入るとあずの声はこころもちうわずり、酔うほどに弾んでいく。

顔が赤くなり始めた統三の声もだんだんにまのびして聞こえてくる。

「いやあ、そんなこたあねえよ、あずさん。こういっちゃなんだが、摂のほうがあ、俺に惚れてるんだよ。だからー、俺はさあ、あいつがさあ、こうなっちゃってさあ、かわいそうでさ、たまらんのよー、わかってくれるかなあ、あずさん」

「あかねちゃん、おじさんって、ほんとに泣き上戸だね」

「そうなの、しばしばこういう泣きがはいるのよ」

「まあまあ、惚れたおんなに惚れられて、けっこうなことやないの。ふふふ、まあどうぞ」

 あずはにこにこしながら酒を注ぐ。だんだんとあずの頬も染まってきている。


「あずはほんとに笑い上戸だね」
それは恵吾がいった言葉だ。

冬の日、鍋の湯気の向こうに、あずが仕立てた紬の着物に着替えた恵吾が座っていた。

「もうちょっとふっくらせんと、着物が似合わへんわ。今日はお好みの沖すき鍋にして、お魚も貝もいっぱい入ってるし、どんどん食べてな」

「ああ、いただくよ。うまそうだ」

箸を取る恵吾を、うれしそうにあずが見つめる。

恵吾が注ぐ酒をあずは愛おしげに飲んだ。ゆっくりと顎を上げていき、最後は白い咽喉元を見せて杯を空けた。杯を唇から離すと笑みを浮かべ、小首を傾げて、「ああ、おいし」と吐息のように囁いた。

「あずはほんとに、いいのみっぷりだねえ」

恵吾は幾度もあずの杯を満たす。

「いやあ、かんにんや。もうそんなに飲めへんわ」

そう言いながら、あずはまた白い咽喉元を見せる。酔うてしもたわ、と恵吾によりかかるあずの横顔。その肩にまわされる恵吾の細く長い指。

ひなも酔ってしまったのか、ぼんやりとそんなふたりの姿が浮かぶ。

ひな自身がそこに居合わせたのかどうかはわからない。

ひょっとしたらこの家のこの部屋の記憶がそんなシーンを自分にみせてくれているのかもしれないと、ほてった頬に手を当てながらひなは思う。

 注ぎあった酒はますます互いの口を滑らかにしていく。

「摂にはさあ、ほんとに苦労かけてんだ。……子供四人もいるしさあ……仕事はだんだんへってくるしさあ……ほんときびしいんだあ……それでも摂はさあ……年取ったおやじやおふくろの世話、きっちり最後までしてくれたんだよ……そうなんだ。えらいやつなんだ、あいつはー」

 統三は独り言のように言葉を重ねていく。その途中でひなが言葉を接ぐ。

「あ、あかねちゃんのおばあさんのこと、よくおぼえてるよ、わたし。いっつも飴もらったし。鼻とか、おじさんに似てたよね」

「ははは、その通り! ばあちゃんの鼻もでーんとしてあぐらかいてたよね」

「ふふふ、思い出したわ。あのおばあさんは顎がようはずれてしまうおかたやったなあ。しゃべってる最中に、急にがくーって下顎が伸びて、あいたままになってしまわはった。人形浄瑠璃の顎落ちを見てるみたいやったわ。あのときはびっくりしたなあ」

「ははは、そうなの。妖怪みたいでしょう? 家族は慣れちゃってたけど、たいがいのひとは仰天してたわね」

「うん、わたし、初めて見たときはきっと十歳くらいだったとおもうんだけど、それでも、こわくて、あかねちゃんのおばあちゃんが壊れたあって、泣いちゃったもん」

「……俺はいまでもその夢みて、うなされるんだよ、ひなちゃん」

統三はその夢を振り切るように、どんどん杯を空けていく。

途切れた会話の間を縫うように店の柱時計の音が重たく響いてくる。

……七つ、八つ。ひなは無意識にその数を数える。……まだ、大丈夫だよね。まだ、帰らないよね……恵吾が行ってしまう時間を気にしながらその音を聞いていた。

「ねえねえ、おばあさんって、がまがえるみたいなドスのきいた声だったよね」

「そうそう、耳に張り付く声だった。畳職人を相手にしてきたからさ、とことん気が強くてさあ、かあさんたいへんだったんだって」

「しかし、あのおかたも、なんぼしっかりしたはるていうても、最後はちょっとおつむがうまいことまわらへんみたいやったねえ」

「そうなの、それも困ったことだったの。ある日、突然、とうさんのことを自分の旦那だと思い込んじゃったの。ねー、とうさん」

「へー、そうだったの。わたし、知らなかった」

「……ちがうって言ったって、おふくろはあの通り頑固で、いっさい聞く耳もたないからさあ……参ったよー」

そう言いながら統三は手酌で杯を満たし、じっとその底を見つめる。

「で、ほんとの旦那のじいちゃんのことは、どこかよそのあやしいおっさんだと思ってて、じーって睨みつけたりするんだもん、見ててかわいそうだったよ、じいちゃん」

「ほんまやなあ、それはなんや、究極の失恋っていう感じがするなあ」

「でしょう? ばあちゃんは、じいちゃんのこと、昔はけっこういい男だったんだよ、わたしゃ岡惚れしちゃったんだよなんて、うれしそうによく言ってたのにねえ……」

 統三の晩酌の相手をしてきたあかねは、アルコールには強いほうだが、杯を重ねてくるとさすがに頬が上気し、いつに増して言葉数が多い。

「でもってさあ、ばあちゃん、なにを思ったのか、長火鉢の前に陣取って時代劇の親分みたいに煙管で煙草吸いはじめたんだよね。じいちゃんなんか縁側に押しやられちゃって、なんかしみじみして、庭の木眺めて、ぶつぶつ言ってたよ」

「ああ、そのおじいさんの煙草盆と煙管、このまえ統三さんがもってきてくりゃはったあれやねえ。ふふ、おじいさん、すきで縁側で吸うたはったわけやないねんねえ。押しやられたはったんかあ、かわいそうに……」

「ばあちゃんのほうはさ、かあさんに旦那を取られたって思い込んじゃってるからさ、あの年でやきもち焼いちゃって、けっこうキツイ言葉を吐きまくってたんだよね」

「そやった。まあ本人は若いつもりでやはったさかいにしゃあないねんけど、摂さん、情けないことやっていうたはったわ」

「……俺はさあ、摂に……ほんと、苦労ばっかしかけてんだよ、あずさーん。わかってくれるよねえ」

「ふふふ、統三さん、もうできあがったはるなあ。ちょっと横にならはったらどうえ」

「そうさしてもらうかなあ」

そう言ったかと思うと統三はコタツから出て、倒れるように横になった。

「もー、とうさんったら、しょうがないわねえ。ほら、これ」
 あかねが座布団を枕代わりに統三の頭の下に差し入れる。

「あ、わたし、二階行って、毛布とって来るね」
ひなはそう言って廊下に出た。

冷えた空気が上気した頬に包んで、きもちがいい。思わず、ふーと深呼吸をする。

「究極の失恋かあ」などと独り言をいいながら、ひなはゆっくりと階段を上り、あずの部屋に入る。くらがりでもなにがどこにあるかがわかる部屋だ。

押入れのいつもは開けないほうの襖をあけて客用の夜具から見慣れた毛布を引っ張り出す。
それはこの家で恵吾が使っていた毛布だ。頬に当ててみると「ひな、おいで、あったかいよ」なんていう恵吾の声が聞こえてきそうな気がしてくる。

あずもそんな声を聞くのだろうか、そんなことが気になってくる。

「はー、惚れたひとに惚れられたときから、せつなさもいっしょに背負い込むんだよねえ」

 以前、あずの身の上話を聞いた摂が、遠い目をしてしみじみと言った言葉が、口をついて出る。

それを聞いたとき、ひなには深い意味がわからなかったのだが、今になってみると、そのせつなさが身近だ。

恵吾の気配が消えた朝、二階のこの部屋で、ひとり、恵吾が脱ぎ捨てて行った着物を畳んでいたあずの後姿が忘れられない。

一段一段を確かめるように階段を下りてくると、統三はいびきをかいて眠っていた。もって来た毛布を統三にかけると、一瞬あずの目がその毛布に留まる。

「これで、だいじょうぶかなあ」

「ひなちゃん、ありがとう。ごめんね。とうさん、飲み過ぎだよね。こまったもんだ」

 あずが冷めた酒をあおるように飲んで、あかねに声をかける。

「……あかねちゃん……ほんで、あんたの……ほれ、なんていうたかいなあ……そやロドリゲスはどないしてるのん?」

「ロドリゲス? なに、それ」

「もうー、そうじゃないでしょー。あのね、母ったら、あかねちゃんの彼の名前、勝手にロドリゲスってきめちゃってるの」

「ははは、おばさんらしい。ロドリゲスかあ。ありがちな名前よね。言ってなかったっけ? 彼はアルマンドていうの。みんなアルって呼んでる」

「へー、アルマンドかあ。でもなんか母はまちがえそうな名前かもしれない」

「はは、アマンドとか、アルマジロとか?」

「……あんたら勝手なこといわんといて。そんなこといわへんわ……そやけど、アルさんがチューしたら、アルチューやなあ。ふふ、おかし!」

 そういったかと思うとあずはコタツにつっぷした。

「ああ、だめだ、母もできあがってるわ。おじさんのこといえないよね。はーは、明日、日帰りバスツアーで、静岡のほうへ行くんでしょう?」

「へー、めずらしいね。おばさん、そういう旅行とか、みんなでどっかいくのって、あんまりすきじゃないんだと思ってた」

「うううん。ほんとはすきなんだけど、残念ながら、うち、お金がなくて、いけなかったの。でも今度のはクリーニング屋さんの抽選で当たったんだって。ただだからさ、どんなもんだかわかんないんだけど、母はたのしみにしてるみたいよ」

「へー、あれに当たったんだ。おばさんて意外にくじ運が強いんだね」

「うん。本人は霊感だって言ってるけどね。でもお酒は弱くなったみたいね。……はいはい、母も横になってね」

「弱くなったほうが飲みすぎなくていいよ。アルチューは怖いっす。健康は大事っす」

「ふふ、そうっすよねー。しょうがないからお開きにして片付けちゃおうか。まず母を二階で寝かせるね。わたし、お布団、ひいてくるわ」

「わかった。わたしも手伝うよ」

 そのあと、ふたりは狭い台所に並んで食器を洗う。どちらの家で食べても、同じことをする。中学のときからあたりまえにそうだった。

「で、どうなの? アルをおじさんに会わせたの?」

 泡だらけの食器をあかねに手渡してひなが訊くと、それを手際よくすすぎながら、あかねが答える。

「うーん、まだ。あのね、アルは今アルゼンチンに帰ってるの。むこうでお世話になってた伯父さんが急に亡くなったんだって」

「へー、遠いからたいへんだねえ。時間もお金も」

「ブエノスアイレスに着いてからがまた時間がかかるんだって。なんさかあ、いろいろ考えちゃうよね。この遠さ」

「なにしろ地球のうらがわ、だもんね。言ってみれば、あかねちゃんの体はここにあって、こころはアルのいるアルゼンチンにあるって感じかな?」

「そうだね。言ってみれば、うちのとうさんの図体はここにあって、ハートはかあさんのいる病院にあるって感じだよね。ははは」

「ふふ、言ってみれば、親子して『こころここにあらず』ですな」

「だからさあ、マジで、ひなちゃんも早くそうならないかな。なんか、話が遠いよ」

「ふふ、すまぬ、思慕がたりない未熟者でござる」

「ははは。ちりめんじゃこじゃのう」

 ふたりはふざけあいながらも手早く拭いてすべて食器棚にしまう。

小さな食器棚には、ひなが陶芸教室で作ったものも入っていて、置き場所が狭いと文句をいうように清水焼の薄い茶碗が軽くぶつかりあい、ちりんと音がする。

その上の段には普段つかわれることのない不揃いで嵩高い器が場所ふさぎのように並んでいる。それは京都にいたころ、あずが恵吾のために用意したものだ。

料理や季節が焼き物を選ぶ。染付け、赤絵、黒物、粉引、金襴手。「これはいいねえ」という恵吾のひとことが聞きたくて、高価なものではないが、ひとつひとつ時間をかけ吟味して選んだのだとあずは言った。

食器棚の上にかつて恵吾が持ってきた紐のかかった古い木箱が見える。

あの箱のなかには鼠志野の抹茶茶碗が入っている。褐色と鼠色がせめぎあうような大胆な色合いの茶碗を恵吾は好んだ。

ひなはそんな茶碗がつくりたくて陶芸を始めたのだった。

あずは恵吾がこの家に来るとまずこの茶碗で薄茶を出した。

恵吾は季節の和菓子を嬉しそうに口に運び、作法どおりに茶碗の正面を回し避けて、ゆっくり味わいながら飲み干した。

吾の長い指はその鼠志野をこころから慈しんでいるように、やわらかに包み込んだ。
 
あのころのあずが見せた、木箱を開けるときのこころはずみと、しまうときのためいきをひなは、はっきりと憶えている。

恵吾が逝ったあと、これが「ふびんや」の店先にならんだこともある。あずがいつも身近に置いて眺めていたいからだった。

泥大島の着物地の上に置かれた茶碗はやはり人目を引き、買いたいと申し出るひとが現れたのだが、これは売り物ではないのだと、あずは、にべもなく断った。申し出た裕福そうな女性が恵吾を連れ去っていくような気がしたのかもしれない。

その後、あずは茶碗を閉じ込めるようにあの木箱にしまい、自分のこころおぼえの日にだけ紐を解くようになった。

今はもうこの世のどこにもいない恵吾のこころは、もしかしたらあの木箱のなかにあるのかもしれない。

だったら、あずとひなのこころは、と思いかけて、ひなは勢いよく食器棚の扉を閉めた。開けないほうがいい箱もある。

 寝起きが悪くて唸る統三をなんとかなだめすかして、抱きかかえるようにしてあかねが帰ったのは十時を回っていた。

片側を支えながら送りに出ると、空に雲が広がっていた。「夜半から雨になり、山沿いでは雪になるでしょう」という天気予報を思い出し、ひなは首をすくめて家に入った。



瓦屋根を打つ雨の音が、冷えた空気を伝って布団の中のひなの耳に忍び寄ってくる。まだ夜は明けていないようだ。部屋の暗がりが濃い。

目覚まし時計を見ようと思うが、体が動かない。こわばっているのは体だけではない。こころのなかのどこかがまた凍りついている。

 夢を見た。見たくもない夢だ。

雨が降っていた。小学校の校舎の外に付けられた金属性の非常階段も雨に濡れていた。

カンカンカンドンドンドンという音が聞こえる。

螺旋の階段をひながもんどりうって落ちていく音が長く聞こえてくる。

その時穿いていた青い紫陽花の模様のついたスカートと階段の縁の丸みとその間からのぞくコンクリートが視野にあった。

 いったい誰がこんな夢をくりかえし見させるのだろう。

 その一瞬、背中が熱くなった。後ろから押された手の形がわかるほどだった。強い力だった。その手が誰のものか、ひなは知っていた。浦野加奈子だ

近所の商店街の乾物屋の娘は、ドッジボールのとき、威力のある横手投げで気に入らない子を狙いうちする子だった。顎の真ん中に大きなほくろがあった。

京都でのいやなことはなにもかも忘れてしまった、と思いたいのに夢がその封印をこじ開ける。

雨の音とともに、あの日のことをまたくっきりと思い出してしまう。本当はなにひとつ忘れてはいないのだとひなは気づく。

昼休みだった。給食が終わったあと加奈子が真面目な顔つきで「用があるさかいに非常階段のとこにきて」とひなの耳もとで言った。

「なに?」と警戒すると「ちょっとだけや。ふたりだけのヒミツのはなしがあるねん」と声を潜めた。

「いやや」と断ると加奈子の取り巻きふたりがひなの両脇を固め、にやにやしながら「いいじゃない。ひーな」と意味ありげにひなの名を連呼し、抱き上げるようにしてひなを非常階段のほうへ連れて行った。

三階の非常口の重いドアを加奈子が開けると、強い雨風が吹き付けてきて、それぞれのスカートの裾をめくりあげる。

とりまきはそんなこと気も留めず、ひなを非常階段に放り出すようにして手を離す。そのとたん、ひなはバランスを崩しかけるが、手すりにつかまってなんとか転ばずに立った。

「なんの用?」とひなが聞くと、加奈子が前に出てきてひなの顔をのぞきこみながらゆっくりとした口調で「あんたー、田沼くんのこと、すきなんやろ」と問い詰めた。

「うううん、田沼くんのことなんか、なんともおもてへん」とひなは答える。

「この嘘つき、おんなじ保健係やていうていっつも田沼くんといっしょにいるやんか」

「なにいうてんのん。係の仕事してるだけやんか」

「あんた、加奈子が田沼くんのことすきなん知ってて、横取りするつもりやねんやろ。田沼くん、ハンサムやし、お医者さんの息子やしなあ」

 とりまきのひとりがそういってひなの肩を突く。ひなは足を踏ん張ってこらえる。

「そうや、そうや、あんた、あんたのおかあちゃんと同じことするつもりやろ。ひーな。隠してもあかんえ。あんたのおかあちゃんのことはクラスのみんなが知ってるわ」

 もうひとりは横合いから肩をぶつけてくる。半身を傾けながらもひなは踏ん張る。

加奈子がフンと鼻を鳴らして、蔑むように言った「あんたのおかあちゃんは泥棒や」という言葉が大粒の雨とともにひなを打った。

返す言葉が出てこない。顔をそむけて唇を噛んだ。

それを見て加奈子が勝ち誇ったように高い声で笑いながらひなの後ろに回りこんだ。そして「あんたなんか、いらんわ」と言い、ひなの背中を階段のほうへ強く押した。

濡れた階段がひなの脚を滑らせた。

どんな向きになってどう転がっていったのかという記憶はまったくない。

その途中でこちらをうかがう加奈子の笑っている顔が見えたような気がしたがそれも一瞬で、焼かれるように脚がいたみ、意識がなくなった。



「ひな、ひな、ひな」
 せっぱつまった声だった。何度も自分の名前を呼ばれているのはわかっていたが、どうしても目が開かない。

あけなきゃ、と思っているうちにひどく頭が痛み、深みに沈み込むように気が遠くなった。

そのあともそこから少し浮かび上がってくることもあったが、また沈みこんでしまう。

浅くなったり深くなったりする水のなかを、為すすべなく、ずっと浮遊している感じがしていた。

どれぐらいの時間が経ったのかはわからないが、そんなことを何回かくりかえしたあと、光を感じるところまで浮かび上がってきたときに、泣き声が聞こえてきた。

――ああ、また、おかあちゃんが泣いたはる。きっとおとうちゃんが東京へ帰ってしまわはったんや。朝、家を出て行くおとうちゃんを、東京で待ったはるひとがやはるさかいにしゃあないねん、て言うて見送ってから、おかあちゃんは自分の部屋でひとりで泣かはる。うち、なんでも知ってるもん。

――東京で待ったはるのが、どんなひとかも、うち、知ってるもん。おとうちゃんの奥さんが待ったはるねん。うちのお兄ちゃんになるひとがふたりやはって、弟さんのほうが難病にかかったはるさかいに、ほっとけへんねんや、っておかあちゃんが教えてくりゃはった。

――おとうちゃん、今度はいつ来ゃはるねんやろ。京都のクライアントさんのところへ行くって言うて、おとうちゃんは東京の家を出て来ゃはる。おとうちゃん、そうやってなんぼ嘘をついてきゃはったんやろ。嘘をつかんとおかあちゃんに会えへんねん。どこまでもどこまでも、おとうちゃんが嘘をついててくりゃあらへんかったら、おかあちゃんが泣いてしまわはる。

――「あんたのおかあちゃんは泥棒や」て加奈子に言われた。そやけど泥棒はおとうちゃんのほうやて、うちのおばあちゃんが言うたはった。おとうちゃん、いっぱい嘘ついて泥棒になってしまわはったんやろか。

――ああ、まだおかあちゃんは泣かはる。ああ、違う。泣いてるのはおとうちゃんや。ああ、おとうちゃん、また嘘ついてきゃはったんや。かぞえきれへんほど嘘ついて、おとうちゃんはおかあちゃんに会いにきゃはる。やっぱりおとうちゃんは、おかあちゃんのこと、すきやねんなあ……


 ひながうっすらと目を開けると、白い天井と恵吾の蒼い顔が見えた。

「……ああ、よかった、気がついた……ひなー、よかったよー……ほんとにひどい目にあったなあ……かわいそうに……」

 くるむようにひなの頬に手をあてている恵吾の表情が崩れていた。恵吾が泣いていた。はじめて見る姿だった。

「ひな、いたかったやろう。ほんまにかわいそになあ、こんな目に合わされてしもて。なんの因縁やろなあ」
 病室のどこかから聞こえてくるチセの声も震えていた。

「ああ、ひな……ひな……ひな……」

あずは恵吾の反対側でひなの手を握りしめ、ただその名だけを何度も口にするのだった。

「ひなー」とあずの声がする。

あれからひなはまた寝入ってしまったらしい。

部屋はだいぶ明るくなっているが、雨の音は続いている。ぼんやりとしたまま布団に起き上がると、あずが部屋に入ってきた。

楽そうなパンツスーツを着て、きちんと化粧をしている。

「おはようさん。起きてた? 夕べは先に寝てしもてかんにんな」

「うん、統三さんを帰すのがたいへんだったよ。あかねちゃんがぶーぶー言ってた。で、母はだいじょうぶなの?」

「おかげさんでよう寝てすっきりや。下に朝ごはんできてるし。あとはよろしく」

「えっ、もう出かけるの?」
「そら日帰りやしな、はよいかんとな」

「でも雨だね」
「そやな。とんだ雨女や」

「山沿いでは雪になるって。気をつけてね」
「あんたも店番あんじょうたのみまっせ。あ、それから、年賀状の宛名書きもやっといてな。机の上に一式用意しといたさかいに」

「ああ、あれかあ……」
「欠礼の葉書を確認してから書いてな」

 そういい残して部屋を出るあずの背中にひなが声をかけた。

「ね、母、静岡で、だれかいいひと、見つけてきたら?」
「あほ」
 振り返ってあずが笑った。

新聞配達のバイク音が聞こえる。これから商店街が目覚めていく。 

  (三十一枚)
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