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文の文

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      片袖袋 
     

静かな師走の朝、冷たい雨が町を包む。

ひなはいつものように掃除を済ませ、ストーブをつけて、部屋が暖まると、商品にかけた埃よけの白い布を取る。そして着物地で作った洋服や小物、わずかにある骨董品のひとつひとつを手にとって確認しながら、それぞれが纏った夜の冷気を払う。

すると、一夜の眠りからさめた品物は、和紙のシェードをくぐった白熱灯の光を浴びて、どこか柔和な表情をみせ、遠慮がちな声で、わたくしはここにおりますから、と囁く。

カーテンを開け、軒先に傘立てをだして「ふびんや」の開店だ。

ひなはそのまま店先に佇んで、ガラス戸越しに外を見る。

通りに人影はない。乳白色の空からアスファルトに落ちる雨は激しくはないが、すぐには止みそうもない気配だ。配達の軽自動車が浅い水溜りの水を静かにかきわけて、ゆっくりと通り抜ける。

あずが乗ったバスは朝早く新宿を出発した。日帰りとはいえ、久しぶりの遠出に心弾ませていることだろう。今頃はどのあたりだろう。あずもまた窓ガラスを濡らす水滴越しに、雨にけぶった景色を眺めているのだろうか。

奥にむかって歩き出すと、カッカッカッと急ぎ足で駈けて来る下駄の音がした。振り返るとガラス戸が軋みながら開いた。

「ひなちゃん、朝早くからごめんねー」
 元気のいい声が響き、カーラーを巻いたすっぴんの伊沙子が、上着の前をかきあわせて飛び込んできた。

ストーブで暖まってきた店内の空気がにわかに冷え、湿気が忍び込む。

伊沙子は「ふびんや」の横の路地を入って五軒目にある小料理屋「笹生」の女将だ。

実際の年齢は誰も知らないのだけれど、いつも若作りで華やいだ雰囲気がする。肌もきめが細かく、つやつやしているので、いつだったか肌荒れした摂がうらやましがると、秘訣は卵の白身と日本酒を混ぜたパックだと言っていた。
しかし、今朝の眠たげな素顔はいささかくすんでいて、五十歳をいくつか超えて見える。

「ああ、おはようございます。伊沙子さん。今日は、ずいぶん、早いですねえ。夕べも遅かったんじゃないんですか」

「うん、まあね。ああー、眠いわね。あれ、あずちゃんはいないの?」

伊沙子は、もともと着物は着慣れてはいたが、あず流の動きやすく楽な着付けの評判を聞いて、自分も習いたいとしばらく地区センターの着付け教室に通っていた。

そこでウマがあったのか、以来、摂ともども、気楽な付き合いが続いている。
「あの、今日は朝早くからバスツアーに行ってて、いないんです。日帰りだから夜には帰ってますけど」
「ああ、クリーニング屋のあれ? そうか、今日だったんだ。聞いてたけど忘れてた」
「母は、静岡に行って、おいしいお魚を食べるんだって言ってたけど、要領をえなくて……伊沙子さん、詳しい行き先とか、知ってます?」
「ははは、まったくあずちゃんらしいわねえ。あのひと、実は静岡がどこにあるかもよくわかってないんじゃないの?」
「ふふ、さすがに京都までの新幹線が通ってる府県はわかってるみたいですけど、天気予報とか見てると、頭の中で栃木と群馬がごっちゃになるみたいな感じですよ」
「ははは、やっぱり関西人よねえ。……えーっと、あのツアーはね、たしか、焼津へいくのよ。『大トロ入りマグロてんこ盛り丼、イチゴもみかんも山盛り、特典いっぱいつきの満腹ツアー』とか書いてあったわよ。前にテレビの旅番組で見たことあるけど、なんだかお店をいっぱい巡って、ただでいろいろ貰ってくるみたいよ」
「へー、そうなんだ。なんかすごそう。てんこ盛り丼って……。きっと母はそれを説明するのがめんどうだったのね。『なんでもええがな』ってしょっちゅう言うし……」
「はは、ほんとにおかしな親子ねえ、あんたたちは。ふたりの話聞いてると、時々、立場が逆転してるよね」
「そうかなあ……で、母になにか?」
「ほら、摂ちゃんのお見舞い行くっていってたから、どうしたかなって思って」
「ああ、そのこと。昨日、わたしもいっしょに行ってきたけど」
「どうだった? うちもお見舞いに行っていいかしらねえ。うちのが、病院食はまずいだろうし、うまいもん作ってやるから持ってってやれば、っていうのよ」
「うーん、どうかなあ。なんか、お正月は帰れないみたいだったけど」
「ああ、まだ、いけないのかしらねえ。摂ちゃん、かわいそうに。まあ、寒いからね、病院のほうが安心ていえば安心だけど」
「あ、母もそう言ってます。逆に心配なのは統三さんのほうだって」
「そうね。うちのもそういうのよ。よく飲みにきてくれるんだけど泣き上戸でね。……あ、そうそう、そっちはついでの話で、今日は、ひな袋をもらいにきたの。ここのところ、法事とか忘年会で貸切が続いて、なんだか店が忙しかったもんだからこれなかったのよ」
 勝手知ったる「ふびんや」のなかを、伊沙子は奥まではいってくる。慣れた手つきで、壁際に置かれた、黒く大きな金具のついた舟箪笥の取っ手を引く。重たげな赤茶色の引き出しがあくと、色とりどりの袋が現れる。
「伊沙子さんたら、この商品名はひな袋じゃなくて、片袖袋ですよ」
 ひなは後ろから笑って訂正する。
「ふびんや」の商品として、ひなが一番初めに作ったのがこの手提げ袋だった。
新たに着物がくるたびに、ひなは記念写真のように、その片袖で一つずつ作ってきた。縦が二十七センチ、横が二十二センチ、底のほうを袖の丸みに似せて丸くしたぺったんこの袋だ。薄くなった着物地には接着芯を入れて補強して、けっこう派手めの裏地をつける。持ち手は細い帯締めを利用することもあるが、共布で作ることが多い。
「だって、ひなちゃんが作るんだもん、ひな袋でいいじゃない。みんなそう言ってるわよ」
「ふふ、それならそれでもいいですけど」
 伊沙子は袋を取り出してあれこれ見比べる。作り手のひなには次々に現れるそのどれもが懐かしく映る。
「えーっと、この赤いお召しのと、紫の絞りの、もらうわね」
「……ふたつ? あ、ひょっとして、むこうのひとの?」
「そう、うちのが午前中に行ってくるっていうからさ。なんやかや入れて持たせようとおもってさ。お正月がくるしね」
「ふーん、伊沙子さんってほんとにやさしいのね」
「なーに言ってんのよ。おだてたってなにも出ないわよ」
「笹生」の板前でもある伊沙子の夫はずいぶん年下で、離婚歴がある。ふたりのあいだに子供はいないが、別れた相手の元にまだ成人しない子供がいて、その祖母もいっしょに船橋で暮らしているらしい。
夫が年に何回か船橋まで会いに行く日、伊沙子はそのおんなの子とおばあさんのために片袖袋を買いに来る。
「じゃ、ふたつで千円ね」
「ねー、ひなちゃん、まだ値上げしないの? あんた、ずいぶん腕上げたのにそれじゃ安すぎるんじゃないの? きょうび、ひとつ五百円じゃ材料費にもなんないでしょう」
 他の袋の出来上がりを仔細に眺めながら伊沙子が言う。
当初は片袖袋として売るというよりは、景品にしたり、紙袋がわりに商品を入れて渡すことが多かったのだが、これだけを売ってほしいというひとが増えてきたので、あずがその値段に決めた。
「いいの。着物の供養になればいいって母は言ってるし。でも伊沙子さんにはいつもたくさん買ってもらって、ありがたいです。毎度ありーです」
片袖袋のほかにも、伊沙子の着物の仕立てや「笹生」のお年賀にする刺し子の布巾の注文を受けたりもしている。伊沙子の口コミで、商店街の他の店からもお年賀の注文がくるようになった。
「ほんとに、歯がゆいくらい欲のない親子ねえ。そうそう、きいたわよ。ひなちゃん、あのキューピーばあさんの人形の着物作ってあげたんだってね」
「伊沙子さん、公子さんのこと、知ってるの?」
「まあね。あのひと、膝が痛くて本橋外科に通ってるからさ、このあたりでよく見かけるわよ。ここの向かいのおばあさんなんかしょっちゅう会うって言ってる。待合室でもあのキューピーさん、抱いてるらしいからさ、そりゃあ人目をひくわよ」
「みんなはなんでキューピーさんなのかも、わかってるの?」
「いやあ、それはちょっと面と向っては訊けないよね」
「うん、そう。訊きたいけど、訊けない」
「向かいのおばあさんなんかは赤ん坊を亡くしちゃっておかしくなったんじゃないの、って勝手なこと言ってるけど……わたしはあのひともこどもが産めないんじゃないのかなって思うのよ。きっとさ、膝の上が薄ら寒くて仕方がないから、キューピーさん、抱くんじゃないのかしらねえ」
 伊沙子は顔色も変えずにそういうが、彼女自身、若いときに病気で子宮摘出をしている。
「あのおかたも明るうしたはるけど、あの笑顔はハンパやないで」
まだなにも始まってはいないときから大きなマイナスを抱えてきたひとなのだと、あずが言っていた。願いはお百度を踏むように、幾度も同じ道筋を巡っていったことだろう。自分には、いくら願っても得られないものがあるのだと骨身にしみてわかるまでには、どれくらい時間がかかるのだろう。
思いがけずこころがざわついてきてうつむくひなに、伊沙子が明るい声で言う。
「でもさあ、あのひと、人形の着物をふびんやのひなちゃんが作ってくれたんだってみんなに自慢げに言ってるらしいわよ。『そりゃあ、いいちりめんの上品な柄の着物で、お正月に着せてやるんだ』って。よっぽどうれしかったんじゃないの?」
「うん、だと思う。公子さん、ここで泣いてたもん……」

 公子が着物を取りに来た日、できばえを見せるために、人形の鞠子に着せてみせた。
公子の手作りだという鉤針編みのワンピースを脱がせると、首に目黒不動のお守りがかけてあった。不釣合いに大きいのではずそうとすると、公子が「取らないで」と言った。
鞠子の足は象の足のように足首がなく、しかも指がくっついているので、足袋は勘弁してもらい、それ以外のものは肌着、裾よけから帯揚げ、帯締めまで、全てひなが工夫してそろえた。サイズはミニチュアだが、けっこう手間はかかった。
それを一枚ずつ着せていくところを公子はそばで息を殺して見つめていた。鞠子はされるがままにただそこに立っていたのだけれど、濃い紫のちりめんに黄や橙の模様が映える着物を着せて、赤い帯を締めると、次第にその頬が上気していくように見えた。
最後に帯締めを締めてポンと帯を叩くと、公子が待ちきれないように横あいから手を出して鞠子を抱えあげ、赤ん坊をあやすように言った。
「ああ、きれいだねえ、鞠子。ああ、かわいいねえ……うれしいねえ。ありがたいねえ」
 彩色されただけの鞠子の髪に公子の涙が落ちた。
「初詣に行って、みんなに見てもらおうねえ。みんな驚くだろうねえ、きっと褒めてくれるよ。鞠子はきれいだねえって。……」
 涙を拭いもしないで、繰り返し鞠子に語りかける。鞠子は不思議そうな顔で公子を見返していた。

「……よっぽどうれしかったんだろうなって思っちゃった」
「ふーん、そうだったんだ。あのひと、昔はいい暮らし、してたらしいけど、今は年金暮らしだし、病院通いもあるから、暮らし向きはきびしいかもね。でも、それはそれよ。ちゃんとお金もらった? 安くし過ぎてない? ふびんやも商売なんだからね」
「だいじょうぶ。きちんと払ってもらったから」

 注文を受けたとき、代金の設定に困った。最初から、材料は祖母のチセのものを利用するつもりだったので、ひなの手間賃だけをもらえばよかったのだが、裕福には見えない公子の負担にならない額がわからなかった。
思案のあげく相談すると、あずはためらいなく答えた。
「まあ、仕上がりにもよるけど、今のあんたやったら六千五百円もらいよし。ほんで渡すときに小物を片袖袋にいれたげたらええ」
「ねえ、それって高すぎない?」
「いや、あのおひとはキューピーさんのために奮発したいんやと思うけどな。五千円ではいかにもおまけしたみたいで切りがよすぎるさかいに、それぐらいがちょうどええと思う。手心加えるような特別扱いはかえって失礼やろ?」
 あずもひなも特別扱いにはプラスとマイナスがあることを身にしみて知っている。
 公子はくたびれた財布から小さく折った一万円札を出して「そんなに、安くしてもらって悪いわねえ」と言った。
ひなは「いえ、小さいものだし、材料費がかかってませんから」と答えたのだった。

 伊沙子はなおも引き出しを覗き込んで、底にある黒い袋を手にとって言う。
「あれ、ひなちゃん、これは、なんだか感じがちがうわね。別珍でつくったの? スパンコールがついてるじゃない。あらあら、同じのがいっぱいあるわねえ」
「ふふ、気がついた? それは洋物なの。ほら、例のバーバラの。これ、伊沙子さんにはあげてなかったっけ」
「ああ、例のカラオケの外人さんの? あの時わたしは別なのをもらったからね。へー、けっこういい感じじゃない。うまく作ったわね。これももらってくわ。これは千円払うからね。このままでいいわ」
「ね、伊沙子さん、それっていろいろあった品物だけど、いいの?」
「なに言ってんの、この店にあるものはみんなそうじゃないの。あんたたち親子がお祓いしてくれてるようなもんだから大丈夫さって、うちのがいつも言ってるわよ。あ、そうだった、うちのがじりじりして待ってるから、帰るね。おじゃまさまー」
 また下駄の音をたてて伊沙子は出て行った。
ひなはガラス戸を閉めながら、あずのまねをして「はー、お江戸のおひとはせわしないことや」と言ってみる。言ったとたんに笑いがこみ上げてくる。
その思い出し笑いが収まったころ、電話が鳴った。
「はい、ふびんやです……あっ、さくらちゃん、お久しぶりです。……摂おばさん、たいへんだったね。……うううん、わたしたちも摂おばさんの顔が見られてうれしかった……ふふ、おじさんって泣き上戸なのね……うううん、気にしないで……」
 声の主は隣家のあかねの姉のさくらだった。今は結婚して、杉並のほうに住んでいる。
「マーくん、大きくなったでしょう?……ふふ、声が聞こえてる。元気そうね……なに? バッグ? お姑さんにプレセントするのね……うん、うん、……へー、四国から出てくるのー? さくらちゃんもたいへんね……うん、わかった。酒袋と大島をアレンジしたやつね。……あるある。けど、あれはけっこう値が張るけどいいの? うん……うん……ふふ、先行投資? なるほど……じゃ、あかねちゃんがきたらわたせばいいのね……了解」
あわてた伊沙子が出しっぱなしにしておいた片袖袋をしまおうと舟箪笥を開けると、底に残っていた袋に縫い付けられたスパンコールが、明滅するように光った。その下には空色のごつい木綿の布がのぞいている。そのカーテンもバーバラの置き土産だ。

ブロンドの髪を短く刈り込んだバーバラが人懐っこい笑顔でこの店に入ってきたのも、やはり寒い雨の日だった。三年近く前、節分から何日が経ったころだったろうか。
「コンニチハ」と語頭にアクセントを置いたあいさつをしたあと、バーバラは名刺をだして、ぺらぺらぺらと英語でまくし立て始めた。あずもひなも英語が得意なほうでないので、これには往生してしまった。ときおり日本語が混じっているのだが、どうにもそのつながりがわからず、ふたりは背の高いバーバラをポカンと見上げるばかりだった。
「そうや、さくらちゃんを呼んできてんか。通訳してもらお。今日は非番やと思うし」
その頃、、さくらは婚約者がいたが、まだ独身で、航空会社のカウンター業務をしていた。
「うー、早口だわあ、このおばさん。手ごわい」
などといいながらも、さすがに実践で英語力を鍛えているさくらは、その礫のような日本語交じりのアメリカ英語を聞き分ける。その気合の入った顔つきが摂にそっくりだ。
「えーっとね、このひと、テキサス出身でね、バーバラ・パーカーっていうんだけど、六十四歳の未亡人なんだって。息子さんと娘さんが日本人と結婚してるんで、最近、日本に来たそうよ。娘さんのクリスティが仙台坂のほうに住んでるんで、自分はこの近所のアパート借りたって言ってる」
「へー、そうかいな。ほなら、バーバラはんはメリーウイドウやな」
 その言葉を聞いてバーバラは「イエス、イエス」とにっこりする。
「そうかあ、それで、ときどき日本語が混じるのね。たかーし、たかーし、って言ってたのはきっとたかしっていうお婿さんの名前ね」
「ちがうちがう、娘婿は高橋さんっていうらしいわよ。アパレルメーカーの社長なんだって。なんかね、このひとこのあたりで英会話の個人レッスンかグループレッスンをしたいんだって。ここのお客さんにそういうひとはいないかって聞いてる」
「そんなお金持ちやのに英会話のセンセしたいのんか」
「したいっていうんじゃなくて、娘を頼ってきたものの、景気が良くないから、旦那の会社も大変で、そのうえ子供三人いて、私立の学校に入れてるからお金かかるんだって。このままじゃ肩身が狭いから、自分でなんとか稼ぎたいみたい」
「そうかあ、ほんなら、さくらちゃん、その件はここにくるお客さんに聞いときます、て、いうといて」
バーバラが、色とりどりの派手な傘を広げて出て行ったときには、三人はもうすっかり疲れはてて、こあがりにどっかりすわりこんでしまった。耳の奥でバーバラの早口の英語が激しい雨音のように響いていた。

ひといき入れようと、フナフキンの絵柄のついたマグカップに紅茶を入れていると、あかねがやってきた。
「ちわ。夕べは、ほんとごめんねー、ひなちゃん。おばさんは大丈夫だった?」
「うん、やたら早起きして、行ったよ。あかねちゃんこそ、たいへんだったでしょう?」
ひなはそういいながらミーのマグカップに紅茶を入れて、あかねに渡す。
「あ、ありがとう。あー、あったかい。まあねえ、慣れてるけど、でかいおやじさんだからねえ。肩凝っちゃった」
「おつかれさま。今日はバイト、休み?」
「うううん、遅番。さくらねえのとこ寄ってから行く」
「そうそう、さっき、さくらちゃんから電話あった。これでいいかな?」
 ひなは用意した茶系で、マチの大ぶりのバッグを見せる。これはあずの作品で、大島紬をパッチワークしたものを額縁のように酒袋の布で囲んであり、キルトも入って、しっかりとした仕立てだ。
「うん、それそれ。実に渋いよね。海老で鯛を釣ろうって魂胆らしいけど、ほんとさくらねえは計算高いよねえ」
「さくらちゃんは照れてるだけじゃないの?」
「ひなちゃんは甘い! いっしょに暮らしたらわかるから。あ、そうそう、それから、わたしがマーくんにおみやげもってくから、ひな袋もお願い。藍染ふうのがいいな。」
「はい、片袖袋でございますね」
「いえ、ひな袋をお願いいたしますわ」
「ふふ、こころえましてござそうろう。……伊沙子さんもさあ、ひな袋っていうんだよね」
「ここいらのブランド品なんだから、それでいいんじゃない? そうだ、伊沙子さんていれば、このまえ、とうさんが『笹生』で酔いつぶれちゃってさ、また、わたしが迎えにいったんだけど、あそこの夫婦も仲がいいよね」
「うん。子供がいないからねえって伊沙子さん本人は言ってたけど、なんかさ、年は取ってるけど惚れあってるって言葉が似合いそうだよね」
「うんうん、わかる。でさ、その日はさ、ほかに客がいなかったから、ふたりがカラオケで、『ラブミーテンダー』とか歌ってたんだよ」
「ああ、それって例のバーバラが英語カラオケ教室で教えたやつだよ、きっと」
「なんかさ、思い入れたっぷりに、ラブ ミー スィート なんて顔見合わせて歌ってんの。思わず、ヒューヒューっていっちゃった」
「あかねちゃんたら……」

さくらが会社の後輩をひとり紹介し、近所の喫茶店でバーバラの英会話個人レッスンが始まったのは、「ふびんや」にバーバラが現れた二週間後だった。
英会話なんて聞くと逃げ出しそうな商店街の中高年の面々も、バーバラが日本くんだりまで来て、こころ細い思いしてるんじゃかわいそうだからと、いろいろ相談した結果、カラオケで英語の歌を習おうじゃないか、ということになった。
場所は伊沙子の店「笹生」の二階で、月二回、固定したメンバーではなく、都合のつく者が来ることにして、出席者はひとり一回千円で教わり始めた。
歌の会のほうの初回に、さくらが事前に聞き取っていたバーバラの身の上を紹介した。
テキサスの農場で生まれ育ったバーバラは二度結婚して、二度とも夫に先立たれた。最初のひとは交通事故で、次のひとは胃ガン手術のときの麻酔によるショック死だった。
最初の結婚で子供が四人、二回目で一人生まれた。再婚相手と折り合いの悪かった長男は家出をして、ずっと行方がわからない。ニューヨークの肉屋で働いているという葉書が最後の連絡だった。生きているのか死んでいるのかさえもわからない。
長女はアメリカ人と結婚し、アメリカで暮らしている。次男と次女が日本人と結婚した。次男は広島に住み、義父の営むサッシの会社で働いている。
末っ子の息子は「leukemia」で死んだ。十歳だった。
さすがのさくらもそのルキミアという単語はわからず、辞書をひいたという。「白血病」とあった。ニューメキシコの病院で治療を続けていたが、甲斐なく逝ってしまった。
「ニューメキシコは大きらい。雨が降ってじめじめして、って言ってる」
「バーバラはんも苦労してきゃはったんやなあ。かわいそうになあ」
「それにしては明るいよね、このひと」
「オー、イエース、アイム、げんき、パーソン。なっとうダイスキ」
「ほんまにおかしなおひとやなあ」
 知り合ってみれば、イスラム教のなかのバハーイ教の信者であるバーバラは信仰心が篤く、性格も明るくて、決して悪い人間ではないのがわかった。
しかしバーバラのおしゃべりは、尽きることのない湧き水のようで果てがなく、ついつい本題から脱線してしまう。英語を教えるというよりは落語家の独演会のように身振り手振りも大げさに、ぺらぺらと自分のエピソード語り続ける。
歌の指導も含めて、人になにかを教えることには向かないタイプだとわかるまでに、それほど時間はかからなかった。
さくらの後輩はその話に閉口し、早々にバーバラに見切りをつけた。
それでも商店街の面々はその身の上にこころを寄せて、バーバラのおしゃべりはカラオケの音楽で封じ込め、なにしろ英語の歌を習った。
発音がきれいになったかどうかはわからないが、伊沙子夫婦が揃って「ラブミーテンダー」をそらで歌えるようになったのは、成果といえば成果だった。

紅茶を啜りながら、あかねが思い出したように言う。
「バーバラってさ、すっごいおしゃべりでおもしろいおばさんだったけど、いつの間にか来なくなっちゃったよね」
「うん、まあ、いろいろあったんだけどね……」
 ひなはカップに口をつけて言葉を濁す。

 四月も終わりのある日の午後、バーバラが血相を変えて「ふびんや」へ駆け込んできた。
興奮してまくし立てるバーバラの英語はさくらの通訳抜きでは理解できない。そこで紙に英文を書かせて、辞書片手にひなが訳していった。
「らんなうえい ばいないと?……えー、夜逃げ?」
「夜逃げがどないしたん」
「えーっと……debtってなにかな……あ、借金か。bankruptcyは……ああ、倒産ね」
「えー、どこが倒産したん?」
「ちょっと待ってよ、わたしはさくらちゃんじゃないんだから、時間がかかるの……あのね、だいたいの意味だけど、アパレルの会社が倒産して、 娘さん一家が借金のため夜逃げしたんだって。えー、バーバラがその家の整理にいかなきゃいけないから手伝ってほしいみたいよ。……イサコもさそってこれからいこうって」
「伊沙ちゃん、店があるし、今いうて今は、無理とちがうか」
「だよね。えーっと、続きは……どうせ人に取られてしまうものだから、日ごろのお礼にそこのあるもの、なんでもすきなの、あげるからって」
「お礼て、なにをいうてるの、このひとは。そんな問題とちがうのに。それで、娘さんと連絡はとれてるのんか?」
「いや、わかんないみたい。お兄さんのいる広島へ行ったのかな。いや、ひょっとしたら国外逃亡かもしれないね」
「よそのひとの不運をそんなドラマみたいにいわんとき。……そやけど、婿さんの家のひとかてやはるねんやろ? そのひとらが整理するのが筋とちがうか? そっちにまかせたらええがな」
「そんなややこしいこと、わたし、英語で言えないよ」
「ま、まあ、しゃあないな。で、どうする?」
「どうするって……とりあえず、急な話だし、今日はわたしが偵察に行く。で、そのあとまたみんなで相談しよう」
 
 さくらのバッグを包装し始めると、あかねが急に大きな声を出した。
「ああ、思い出した。かあさんから聞いたわ。あの時、ひなちゃん、外人さんの夜逃げの手伝いしたんだって?」
「ちがうってば、夜逃げした外人さんの家の後片付けを手伝ったの」
「でも、さくらねえのために、なんか中国の骨董の引き出しみたいなの、せしめてきたんしょう?」
「せしめてって……もうー、あかねちゃん、それ、本気で言ってるの?」
「うううん、ひなちゃんがそんなうまく立ちまわれるわけないって思ってたよ」
「なんだかなあー。あれはバーバラがおしつけてきたんだからね。そこんとこ、よろしく!」
「了解! で、外人さんが夜逃げした家ってどんな感じだったの」
「そんなのひとことで言えない」
「こわい?」
「て言うより、せつない」

ひなが案内されたのは、大井町の仙台坂から少し入った、公園の向かいにある洋風の二階建ての一軒家だった。駐車場には車はなく、子供用の自転車が大中小の三台、バーベキュー用品のそばに、所在なさそうに並んでいた。
地植えのゼラニウムばかりが元気よく伸び、見捨てられた植木鉢の葉はその先端から朽ち始めていた。見上げた空にカラスが飛び、繰り返し声高に鳴いていた。
バーバラがドアを開けると、締め切った家の中に充満する、たくさんのものが入り混じった匂いが襲うようにふたりを出迎えた。それはあまり心地のよい匂いではなかった。バーバラが眉をひそめているのが見えた。
玄関の靴脱ぎにはサイズの異なるたくさんの靴が散乱していた。スニーカー、革靴、サンダルがそれぞれの相手を見失っていた。一家が夜逃げをしたのはここからだろうか。混乱しながら自分たちの靴を探した挙句、こうなったのかもしれない。
 廊下の左側のダイニングに入ると、大きなテーブルの上に口の開いたコーンフレークの箱が倒れていた。その横に鮮やかな原色のマグカップとスプーンの入ったままの皿が並んでいる。
童話のなかのくまの親子がオートミールを冷ます間に散歩しているかのように、家族は今、ちょっと席をはずしていて、すぐに帰ってくるかのように見えたが、鉢に盛られたバナナが茶色く変色して、時間の経過を教えていた。
調味料や洗剤、スポンジ、布巾、スーパーの袋、コーヒーメーカー、ポット、トースター。どこの家のキッチンにもある、普通の暮らしに当たり前に必要なものが、そのまま置き去りにされている。どれもがその続きを待っているかのようにそこにあった。

「あの家が特別だったのかもしれないけど、家族みんながさっきまでそこにいたみたいに、いろんなものが、途中なの」
「途中かあ。あ、ポンペイの噴火みたいな感じ?」
「まあ、そこまでなまなましくはないけど、なんていったらいいのかなあ、気持ちがそこに残ってるみたいな感じがして、しんどかった」
「ひなちゃん、敏感だもんね、そういうの」

 バーバラは流しの上の扉を全て勢いよく開けた。扉のなかはどこも統一感なく色とりどりの物で溢れていた。高額そうなタッパーウエアーもいささか乱雑に詰め込んであった。
バーバラは中の食器をどんどん出して、すきなものがあれば持っていっていい、と英語で言った。よくはわからないが、たぶん、そう言っているのだろうとひなは思った。
片言の日本語を話すアメリカ人と片言の英語しか理解できない日本人は、表情や身振り手振りで互いの思いを推し量った。
「いらない」とひなは首を振ったが、バーバラはムーミンの絵柄の付いたマグカップを二つ、ひなに押し付けた。返そうとするとバーバラが睨む。キャラクターのミーは怒ったような目で、スナフキンは寂しそうな目でこちらを見つめていた。ひなは仕方なくバッグにしまった。
ふたりはテーブルの上や床に散乱した食べ残しや紙ごみなど、とりあえずいらないものをゴミ袋につっこんだ。袋はみるみるいっぱいになっていった。主を失ったものはすべていらないもののようにも思えた。

「ふたりだけでかたづけたんでしょう? で、英語は大丈夫だったの?」
「大丈夫じゃなかったよ。辞書を持ってったもん。あとは表情と身振り手振りとカン」
「それでわかったんなら、ひなちゃんもたいしたもんだよ」
「でもさ、バーバラが家中ひっかきまわして、いろんなものを出してきて、欲しいもの、なんでも持ってっていいって言うんだけどさ、なんだか抵抗があってね」
「えっ、どうして?」
「だってさ、暮らしの最中みたいなところにいるわけで、もう二度と帰ってこないんなら、全部、いらないものになるんだろうけど、もし帰ってくるんなら、全部捨てられないでしょう? 帰ってくるって信じたい気持ちもあってさ、そこらへんで振り子みたいに気持ちが揺れて、居心地がわるかった」

リビングにも原色が溢れていた。プラスティックのおもちゃの色だ。出窓にはスヌーピーやキティちゃんのぬいぐるみがおいてけぼりだった。
テレビの前の黒い革張りの大きな肘掛け椅子は、高橋社長の愛用だったのだろう。歪み、へこんだクッションが主の体の重みを教えていた。同じく革張りのソファに積まれた洗濯物は、取っ組み合いでもしたかたのようにもつれた塊になっていた。ひながそれをほぐして畳んでいるあいだに、バーバラはオーディオセットのそばの棚のCDを物色し、自分の気に入ったものをバッグに詰め込み、ひなにも好きなものを取っていい、と言った。
ひなは返事をせず、おもちゃを一箇所に集め、床に散らばった新聞や雑誌を紐でくくり、それを持って廊下に出た。
その先に洗面所が見えた。何気なくのぞくと、洗濯機のふたが開いていた。洗い終わったものが洗濯機の縁に掛かっていた。干そうと取り出した途中で時がとまったかのようだった。壁のフックに掛かった角ハンガーからは、おんなの子の小さな下着とピンクのブラウスがぶらさがっていた。ブラウスの胸のあたりには花の刺繍があった。それをはずして畳んでいると「トゥー アップステアー」というバーバラの声がして階段を上る足音が聞こえた。

「ああ、ひなちゃん、そこでなんか空き巣に入ってるみたいな気分だったんじゃないの?」
「うん、そう、なんだかうしろめたくて。こんなとこ、誰かに見られたら、どう弁解しても泥棒に見えるだろうなあって思った」
「はは、ひなちゃんらしい。でもさ、そういうの、バーバラはもう全部割り切ってたんじゃないの?」
「そうかもしれない。……今思うと、わたしはそれが一番せつなかったのかもしれない」

ひながゆっくりと階段をあがっていくと、踊り場の隅にも衣類が積んであった。
出て行くときそれを持っていこうとしていたのだろうが、それをここで投げ出してしまうような差し迫った何かが高橋社長一家の身に起こっていたのか。何があったのか。
 バーバラは子供部屋にいた。窓には空と雲とカモメをデザインした水色のカーテンが掛かっていた。ベッドではカーテンと同じ模様の布でカバーされた掛け布団が、さっきまでそこで誰かが眠っていたかのようにこんもりと盛り上がっていた。やはり夜、寝ていた子を起こして連れて行ったのだろうか。その子たちに夫婦はどんな言葉をかけたのだろう。
 バーバラは机の上にあった黒い缶にカバンから取り出したCDを入れた。そして「トゥー イサコ」と言ってそれを差し出した。
道具箱のような蓋つきの缶には、ゴシック調のクラシックで華やかな絵柄が付いていた。開けてみると、プレスリーやビートルズの名前が見えた。
ジャニス・ジョップリンという女性歌手のCDもあった。ひなの知らないアーティストだった。取り出してみると、丸いめがねをかけた、風変わりな、なんとなく不器用そうなおんなのひとが、あったかな笑顔でこちらを見つめていた。
バーバラは、自分の娘のクリスティはこの歌手に似ているのだと言った。その丸い顔は面長のバーバラにはちっとも似ていなかった。
隣りは夫婦の寝室だった。サテンのベッドカバーがかかった大きなダブルベッドが部屋に真ん中におかれていた。そのうえにもクリスティのうろたえぶりを示すように衣類やバッグ、化粧ポーチや裁縫箱など、たくさんのものが散在していた。
ひなはとりあえず混沌としたベッドの上で、同じ種類のものをひとまとめにしていった。連絡がつけばクリスティのもとに送れるように、軽く畳んだ衣類を、部屋の隅にあった紙袋に仕分けして入れた。
クリスティはここで、なにが必要で、なにがいらないのかを思案したにちがいない。
これから先の自分にとって大切なものを瞬時に選び取らなければならなくなったとき、ひとはどんなことを考えるのだろう。
京都から東京にくるとき、あずとひなもたくさんのものを捨ててきた。重すぎる荷物を抱えてはどこへもいけない。クリスティは思い出だけをもっていったのだろうか。しかしいつだって思い出はいいこととそうでないことのリバーシブルだから、いやなことを忘れたいのなら、全て置いてくるしかない。

「バーバラは、なんか、人が変わったみたいな、なんというか、税務署の人みたいな顔つきで家の隅々まで踏み込んでいくんだもん」
「だって、そのために行ったんでしょ? そこで娘さんの暮らしが凍り付いてんだからさ、いろんなところからアイスピックを差し込んで砕いて溶かそうとしてたんじゃないの」
「ああ、あかねちゃん、うまいこというね。そうなんだけどねえ……ベッドルームに入ってクローゼットのなかをかき回してるバーバラは、バーゲンセールで張り切ってるおばさんみたいで、なんかたまらなかったの。なんでそんなふうにするのかなあって」
「ひなちゃんの気持ちもわかるけどさ、そこで泣いてもしょうがないじゃない。たぶん、バーバラってそれまでに、いっぱいそういう修羅をくぐってきてるんじゃないのかな」
「そうかあ、そうかもしれないね。だんなさんふたりと息子さん、亡くしてるんだもんね」
「いやあ、きつい人生だねえ」
「でもわたしも今より若かったわけだからさ、自分が京都に置いてきたもののこととか思い出して、ちょっと、おセンチだったのよ」
「へー、おセンチーでございますか?」
「御意、おセンチでございまする」

プラスティックの衣装箱には布地が入っていた。バーバラはそれも引っ張り出す。派手な布が部屋に飛び出し色が氾濫する。四十センチ角くらいのスパンコールの付いた黒い別珍の布もそこにあった。数え切れないほどの量だった。なにかの手違いで商品になりそこねたものをそこに押し込めてあるようだった。倒産した会社のものだったのかもしれない。
 続けてバーバラはクローゼットを開けて中身を物色した。ハンガーに掛かったクリスティの服や、高橋社長のコートを自分の身に当てたり、ひなに当てようとしたりした。
クローゼットの隅からは小さな木製の引き出しも出てきた。取っ手は薄い金具で、てっぺんには喜がふたつならんだような字に象られた装飾金具が付いていた。引き出し内部に鮮やかな黄緑の絹が張られたそれは、いささか古びていて、いずれ骨董の部類にはいるもののように見えた。バーバラは中のものを取り出して、そこに別珍の布を押し込んで、「これはあなたたちの店におけばいい」と言った。
「そんなの持って帰れない」とひなが首を横に振ると、バーバラは子供部屋の水色のカーテンをはずして持ってきた。それを床に広げ、そこに引き出しと缶と別珍の布を入れてぎゅっと絞り、「これで持てる」と言った。
ひなはふうーとため息がでた。ため息といっしょにちからが抜けていった。
「ありがとう」と答えると、バーバラはうれしそうに微笑んだ。
 
「ものを貰うのがつらいときってあるのね」
「欲しくないものを貰うこともあるもんね。でもうちのかあさんはそんなときは、断らないで、気持ちをもらっときなさいっていうよ」
「だってさ、ほんとうの持ち主が大切にしてたものなんじゃないかなって思うとさ……もらっていいのかなっておもっちゃう」
「でもバーバラはさ、いっしょけんめい手伝ってくれたひなちゃんに、なにかお返しがしたかったんだろうと思うけどな」
「そんなの、いいのに」
「そういうひなちゃんだから、あげたかったんだよ」

ひと通りすべての部屋を周り、この家に満ちる混沌としたものを種類別に分類し、二十近いゴミ袋を庭にまとめて出したときには、夕刻が迫っていた。薄闇に沈んだ部屋のなかで、バーバラの金髪だけがくっきり浮かんで見えた。
 くたびれはてて、互いが無口になった帰り道、国道沿いのハンバーガーショップの前でバーバラが立ち止まり、「ちょっと食べていこう」と誘った。
ひなはシェイクを、バーバラはチーズバーガーを頼んだ。ボリュームのあるバーガーをバーバラはうれしそうに大きな口で頬張った。咀嚼する口元の皺が深かった。
「バーバラって、もう年だから、食べたら胸やけするのがわかってるのに、ある日突然、やみくもにチーズバーガーが食べたくなるんだって。そういう食べ物のことをホームシックフードっていうそうよ」
 さくらがそう言っていた。
納豆もイクラも美味しいと言っていたが、それでもその日のバーバラの胃は生まれ育った土地のものを懐かしがっていたらしい。
昔、農場にペカンの樹が二本寄り添うように立っていた。ダディがその実でペカンパイを作ってくれた。それはとても甘い思い出であり、今でもペカンパイを食べると、あの二本の樹の間に夕日が沈んでいくシーンが浮かんでくる、と独り言のようにバーバラは言った。深い眼窩の底で、碧の瞳が光っていた。
ひょっとしたらバーバラはアメリカに帰りたいのかもしれない、とその時ひなは感じていたのだが、案の定、そのあと、バーバラが「ふびんや」を訪れることはなかった。「笹生」にも顔をみせなかった。

 バッグの支払いを済ませたあかねが戸口に向うと、通りに人影が見えた。
「あ、ひなちゃん、見てみて。伊沙子さんたちだよ。すごいよ、相合傘で腕、組んでる」
「ああ、駅まで送っていくんでしょうね。わずかな距離なのにね。ほんと、仲いいよね」
「まいるね。ネバー レット ミー ゴー、だね」
伊沙子はきっちりと髪を結い、いつものように赤い紅をさして、笑っていた。 
                            (四十六枚)                              
土門


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