552344 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

文の文

文の文

焼きなす

焼きなす
        

七月のある日、あまりの暑さに乗ったタクシーの運転手は
「あんまり暑いんで風邪ひいてしまいましたわ」と言う。
車内を冷やしておくのがサービスだから、
待ち時間の冷房がこたえるそうだ。
その言葉のイントネーションが関西風だった。

「どこですか?」
「京都。二条城の前あたりですわ」
「堀川高校ですか」
「そうや」
「わたしは伏見で桃山高校、
月桂冠のネオンと淀の競馬場が家から見えますねん」
「そうかあ、あんまり知らんけどな」

 頭の中に京都市街図を思い浮かべる。ああ、あのへんか。
そこから堀川通りをもう少し行けば夫の実家のある今出川通りで、
帰省のおりにはいつも通るところだ。

「ぼくのつれがこっちのひとやさかいに、こっちにきたんや。
もう二十年になるかなあ。早いもんやわ。
あんな、ぼく、やっとこのごろ納豆食べられるようになってんや」
「へえー、そうなんや。わたしは未だにあきませんねん」
「むこうでは食わへんもんな。匂いがたまらんけど、
身体にええて言われてな。やっとや」

 そういって笑うと白髪の混じった小さな後頭部がゆれる。
薄い肩。長袖のシャツの下の細い腕。初老だろうな。
笑った頬に縦じわが深いのが後ろから見て取れる。

車体には白っぽい日差しが照り返していて、
風景がどことなく歪んでみえる。
ブラウスに張り付いていた熱が引いていくのがわかる。

「京都のこと、誇りに思たはりますか?」
なんとなく気になって訊いてみる。
「うん。思てるで。お客さんによう関西のどこ?大阪か?て聞かれて
、いや京都です、ていうたら、
みんな、へえ、いいところですねえって言うてくりゃはるしな」
「大阪といっしょにされたら、ちょっとくやしいでしょ」
「ははは、そやな。なんでやろな。
東京のひとは京都のこと好きやなあて思うわ」

「そういうたらそやね。ほんなら、食べもん、どうですか?」
「この季節はハモやけど、
こっちで売ってるのんはなんや水っぽうて、うもないな」
「うん、そやけど、目が欲しがってこうてしまうでしょう。
しもた、て思うのわかってるのに」
「そうやな」
「おとふはどうです?」
「うもないな」
 
食べ物の話は人の距離を縮めるようだ。
ふたりとも生まれ育った京都の食べ物が一番だと思っているのがわかる。

「ぼくのつれのひとはこっちのひとやし、
食べるもんがちょっとちがうし、
焼きなすは僕が作ったげるねん。皮むいて、生姜すってな」
「そらおいしいわ。そやけど、ほんまだいじなおひとですねんね」
「いや、そんなこともないけどな」

 好きな人と住むために生まれ育った土地を離れる。
その土地に誇りを持ちながら、そこにはもう住まないと決める。
この穏やかそうな男性はそう決めた。

 この背中をつれのひとに見せて台所に立つ。
なすを焼き、あちちといいながら皮をむく。
生姜の皮も丁寧にむき、目の細かいおろし金ですりおろす。
花がつおをふわっとのせて、
これがうまいねん、と言いながら皿を運ぶ。

 そんな勝手な想像がわく。

すっかり汗が引いたなと思う頃、駅に着いた。
料金を払うと「おおきに。きいつけて」とさりげない声が届く。
久しぶりにそんな言葉に送られた。

「つれのおひととなかように」と言うと
「うん」という迷いない答えが返ってきた。


© Rakuten Group, Inc.